Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#092~096>問答(八)問8-13~8-17

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#092-150826

問8-13 どうして仏随念の修行をしても、近行定(upacāra-samādhi) にしか到達できないのですか?どうして安止定(appanā-samādhi)に到達できないのですか?

答8-13 仏陀功徳は非常に奥深く、それらは世俗諦ではなくて、究竟法(paramattha-dhamma)だからです。究竟法を透視する定は、強くて力のある事は出来ず、故に、仏随念はジャーナを生じる事はなく、近行定に到達するのみです。

今、あなたは実際に仏随念を修行しています。仏随念の修行で、真正のジャーナに到達する事ができるかどうか、試してみてください。ご自分で分かるでしょう。 

#093-150826

問8-14 仏陀の時代、仏陀が不浄観を指導した後、多くの比丘が自殺しました。現在、もし我々が不浄観(asuba-bhāvanā)を修行したならば、同様の後果が生じませんか?

答8-14 あの比丘たちが自殺したのは、過去になした不善業が原因です。彼らはかつて過去世において、多くの不善業をなしました。それらの不善業が熟して、もうすぐ果報として結実しようとしていました。仏陀は、それらの比丘が15日以内に死んで、死後地獄に落ちるのを知っていました。ゆえに、仏陀は彼らに、死を恐れてはならない事、また、不浄観の修行方法を教えました。そして、彼らは不浄観を修行し、身体の不浄で厭わしい事を観察しました。不浄観を修行したため、彼らは自分の身体に執着する事無く、身体に執着しないという状況の下に、死亡しました。彼らは自殺しましたが、しかし、すでに不浄観の修行に成功していましたから、身体への執着はなく、故に、死後は天界に生まれました。こういう理由から、仏陀は特別に、彼らに不浄観を指導したのです。

現在、もし修行者が不浄観を修行しても、自殺という結果を引き起こす事はありません。仏陀は「asubhā bhāvetabbā rāgassa pahānāya」――「貪欲を止めたいならば、不浄観を修行しなさい 」と教えています。不浄観は、一時的に貪欲を止める事ができます。たとえば、ヴァンギーサ大長老(Vaṅgīsa Mahāthera)は、托鉢の為に村に行って、多くの愛すべき対象を見た時、内心に貪欲(rāga)が起こりました。で、彼はアーナンダ尊者に、如何にしてこれらの貪欲を止める事ができるか教えを乞いました。アーナンダ尊者は、不浄観・・・身体の32の部分を、不浄で厭わしいと憶念する修行をするように教えました。《耆利摩難経 Girimānanda Sutta》によると、身体の32の部分を不浄とみなす修行方法は、生命の不浄観(saviññāṇaka-asubha 有識不浄観)と言われます。

このように、仏陀が不浄観を指導したのは、貪欲を止めるためです。それは一時的な修行の法門に過ぎず、長い時間修行しなくてもよいのです。たとえば、一か月、二か月、三か月、一年、二年・・・。こういう事で、不浄観が人を自殺に導くという事はありません。

#094-150826

問8-15 四界分別観は止禅(samatha)に属しますか、それとも観禅(vipassanā)に属しますか?

答8-15 四界分別観は止禅の修行に属しますし、観禅(vipassanā)の修行方法でもあります。もし段階を追って四界分別観を修行したならば、修行者は浄色(透明な物質)を見る事ができます。密集を看破する前、浄色は氷の塊のように見えます。この段階は止禅です。

次に、修行者が浄色の中の空間(ākāsa)に注目すると、彼らは浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます。もし、これらの色聚の四界を分析できたとして、この段階もまた止禅です。しかし、彼らが一粒毎の色聚の中の四界の分析と判別とが出来た時、これは観禅(vipassanā)の始まりです。これは観禅(vipassanā)の「幼稚園」の段階であり、こういう事から、四界分別観は止禅でもあり、観禅(vipassanā)でもあると言えます。

#095-150826

問8-16 すでに第四禅に到達した修行者が四界分別観を修行するのと、いまだジャーナに到達していない修行者が四界分別観を修行するのとでは、両者の結果に違いはありますか?

答8-16 結果は同じです。ただ、十分な定力のある修行者、たとえば:安般念第四禅に到達した修行者は、彼らが究竟色法、究竟名法を識別する時、または色聚を分析する時、非常に簡単に明晰な理解を得る事ができます。どうしてか?専注する心は、究竟色法、究竟名法及びそれらの因縁を如実に透視する事ができるからです。しかしながら、これは一部の修行者につてい述べたもので、すべての修行者に当てはまるものではありません。

《須師摩経 Susima Sutta》では、我々は多くの純観行阿羅漢を見る事ができます。彼らはジャーナの修行をしないで、直接、四界分別観の段階的な修行から始め、その後に観禅(vipassanā)を修行して、阿羅漢果を得ています。《因縁経 Nīdāna Sutta》(相応部・相応‐1-297-298- Samyutta Nikāya-Sam- 1-297-298)の註釈では、これらの純観行阿羅漢は、四界分別観を修行した後、直接観禅(vipassanā)の修行に転向します。その理由は、早く涅槃を証悟したい為です。彼らは、ジャーナに到達するまで止禅を修行するのは、証悟までの時間をロスすると考えていて、故に、彼らは心を専注させる法門として、四界分別観を修行します。しかし、彼らは、阿羅漢果を証悟したという十分な波羅蜜がある為、ジャーナに到達していなくとも、名色法に対する観智は、非常に明晰なわけのです。

#097-150826

問8-17 修行者が初果須陀洹(sotāpanna)または二果斯陀含(sakadāgāmi)を証悟した後、未来世において、辟支仏(paccekabuddha)または声聞弟子(sāvaka)になる事はできますか?

答8-17 声聞弟子にしかなれません。というのも、辟支仏は通常、二阿僧祇劫と十万劫の時間をかけて波羅蜜を積まねばならないからです。もし修行者が釈迦牟尼仏の教化の時代に修行して、しかし、涅槃(涅槃とは須陀洹道sotāpatti-magga または 斯陀含道 sakadāgāmi-maggaなどの対象を指す)を未だ証悟しておらず、かつ、彼らが辟支仏覚智(paccekabuddhiñaṇa)の波羅蜜を有しているならば、彼らは未来において、辟支仏を成就する事はできます。しかし、この教法の時代ではありません。

須陀洹または斯陀含が阿那含または阿羅漢を成就する事ができますが、辟支仏になる事はできません。《小部・犀牛経 Khaggavisāṇa Sutta、Khuddaka Nikāya》の中で、仏陀は、24尊の辟支仏について述べています。辟支仏は、仏が世に出て教化していない時期にのみ出現します;仏が世に出現して教化している時代は、辟支仏は存在しません。仏陀の教化の時代には、声聞弟子だけが存在し、辟支仏は存在しません。

我々の菩薩悉達太子が生まれた時、一尊の辟支仏が、世間に存在していました。名前はマータンガ(Mātaṅga)と言います。太子が誕生した時、天神が喜んで舞い踊り、お互いに「菩薩が誕生した!」と告げ合いました。辟支仏マータンガはそれを聞くと、即刻般涅槃に入りました;というのも、仏陀の教化の時代には、どのような辟支仏も、存在してはならないからです。

この教化の時代で言えば、有名なデーヴァダッタは、未来、一万劫の後に辟支仏になります;彼の有名な弟子アジャセ王もまた、未来において、辟支仏になります。彼らは、未来の、仏のいない世においてでしか、辟支仏になる事はできません。この尊仏の教化の時代に辟支仏になる事はできません。

 (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。