Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#097~103>問答(八)問8-18~8-24

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#097-150827

問8-18 経典の中では、二尊が同時に世に出現できないと書いてあります。辟支仏はどうですか?辟支仏が二尊、世に同時に存在するのは可能ですか?

答8-18 可能です。正等正覚(sammāsambuddha)の仏は、同時に出現する事はできませんが、多くの辟支仏は、同時に世にでることは可能です。

たとえば、紅蓮王妃(Paduma-devī)の 500人の息子は皆辟支仏になりました。その時、我々の菩薩は、6牙巨象でしたが、彼は果物でもって 500尊の辟支仏に供養しました。この話は≪本生経 Jātaka≫の中で多く語られています。

二尊の仏が同時に世に出現できない話は、パーリ聖典《アビダンマ別論Abhidhamma Vibhaṅga》に出てきます。

#098-150827

問8-19 辟支仏は永遠に辟支仏なのでしょうか?いつか彼らは人道に生まれて仏陀になるとか、または阿羅漢になる、という事はありませんか?

答8-19 あり得ません。辟支仏は辟支仏であって、辟支仏のこの期の命は彼らの最後の生になります。辟支仏は阿羅漢でもあります。独立した阿羅漢で、または小仏とも言います。彼らはどんな指導者にも依存する事無く、自ら四聖諦を証悟する事ができます;ただし、他人に四聖諦を教える事はできません。どうしてか?彼らは世俗諦に通じず、究竟法についての概念名詞、たとえば触(phassa)、受(vedanā)など等を述べるのが苦手なのです。彼らは弟子に四聖諦を教えられないので、小仏と呼ばれます。

#099-150827

問8-20 修行者が名法を識別する時、たとえば他心通を備えていますか?

答8-20 外部の名法を識別する方法には、二種類あります。一種類は、観禅(vipassanā)で、もう一つは他心通(cetopariya-ñāṇa)です。他心通とは:他人の内心の意念を知る能力です。この種の神通は、簡単に他人の心を知る事ができます。故に、他心通を具備している人は、他人の心を個別に識別します。反対に、観智は他人の心を知る事はできません;観智は、外部の名法を、全体的に認識する事しかできず、個別には識別できません。観智は「これは男性、これは女性・・・」と識別する事はできず、外部世界を全体的に識別するだけで、個別の対象を研究するという事はありません。故に、観智は他人の心を知る事はできません。

純観行阿羅漢(suddhavipassanā-arahant)も、内部と外部の名色法を識別します。彼らはジャーナと神通の修行はしません。故に、神通を具備していませんが、それでも阿羅漢果を証悟する事はできます。このように、観禅(vipassanā)の領域と神通の領域は異なるのです。

#100-150827

問8-21 もし、修行者が色界ジャーナ名法(rūpāvacara-jhāna-nāma-dhamma)と無色界ジャーナ名法(arūpāvacara-jhāna-nāma-dhamma)を識別しないならば、彼は阿羅漢果を証悟する事ができますか?

答8-21 色界ジャーナ名法と無色界ジャーナ名法を識別しなくても、修行者は阿羅漢果を証悟する事はできます。というのも、ジャーナに到達した人だけが、ジャーナ法――色界ジャーナ名法と無色界ジャーナ名法を識別する事ができるからです。純観行者(suddhavipassanā-yānika)は、ジャーナ法を識別する事はできません。というのも、彼らはジャーナに到達していないからです。彼らは内部の名法を詳細に識別しますが、外部の名法を詳細に識別する事はできず、外部の名法については、彼らは大まかに識別するだけです。このようであっても彼らが阿羅漢果を証悟するには、充分なのです。

#101-150827

問8-22 修行者が近行定(upacāra-samādhi)には到達していても、安止定には到達していない場合で、彼が名法を識別する時、彼が識別しているのは色界名法(rūpāvacara-jhāna-nāma-dhamma)ですか、それとも無色界ジャーナ名法(arūpāvacara-jhāna-nāma-dhamma)ですか?

答8-22 欲界名法のみです。というのも、ジャーナ(に到達する)前のすべての止禅の修行は、皆欲界法(kāmāvacara-nāma-dhamma)なのです。

ジャーナに到達する前、業処の対象に専注する事によって、修行者はある一定程度の定に到達する事ができます。その定は欲界定であって、色界禅(rūpāvacara-jhāna)または無色界禅(arūpāvacara-jhāna)ではありません。

たとえば、安般念を修行する時、もし、修行者が段階を追って精進すれば、彼は安般念似相(ānāpāna-paṭibhāga-nimitta)を見る事ができます。似相が見え始めた最初の段階の定は遍作定(parikamma-samādhi)で、この遍作定は欲界法です。

安般念似相を対象として、引き続き定力を育成します;定力が増す増す強くなって、ジャーナに近くなった時、その定は近行定(upacāra-samādhi)といい、当該の諦もまた欲界定です。

欲界定とジャーナ定(安止定)はどのように異なるか?この二つとも、安般念似相を対象にしていていますが、強度が異なります:一つの心路過程の中で、近行定は7回しか起こる事ができませんが、安止定は無数回生起する事ができます。あなたの修行が名業処まで進んだならば、この違いが分かるでしょう。

《清浄道論 Visuddhimagga》でも、この二者の差異について述べられています。近行定の段階では有分が常に生起します。というのも、近行定の諸禅支は強度が足りないからです;安止定の段階になると、初禅支は強くて力のあるものになり、修行者は何時間も、または何日間も完全な専注を維持する事ができ、有分は生起しません。これが二者の間の違いです。

#102-150827

問8-23 修行者が色界ジャーナ法または無色界ジャーナ法を識別する時、彼は安止定の中にいますか、それとも安止定の外にいますか?

答8-23 安止定にいるのではありませし、近行定にいるのでもありません。観智(vipassanā-ñāṇa)です。修行者はジャーナの中から出てきて初めてジャーナ法を識別する事ができます。この観智は欲界法です。

安般念を例にすると、近行定は安般念似相のみを対象にしますが、安止定もまた安般念似相をのみ対象にします:しかし、観智はこれらのジャーナ法を対象にする事ができます。このように、それらの対象が異なっているのです。

ジャーナ法を識別するのは、近行定でもなく、安止定でもなく、《清浄道論 Visuddhimagga》では、この種の定を刹那定(khaṇika-samādhi)と呼んでいます。

#103-150827

問8-24 修行者が禅支を識別している時、これらの禅支は現在の名法ですか、それとも過去の名法ですか?

答8-24 それらは過去の名法です。それらはすでに消滅しています。修行者は対象と門(dvāra)を同時に識別しなければなりません。安般念を例に取ると、ここでいう対象とは、安般念似相の事で、門とは有分心(bhāvaṅga)の事です。有分心があるので、意門とも言います。もし、同時にこの二つを識別する事ができたならば、あなたは禅支を識別する事ができます。

一つの心識刹那の中で、二つの心が同時に生起する事は不可能です。たとえばこれは指ですが、この指でもって、この指の先端を触る事はできません。しかし、あなたは別の指で、その指を触る事はできます。同様の理屈で、この指は過去のジャーナ法であり、もう一つの指は観智に相当します。これが二者の間の関係です。

如何なる心路過程も生起していない時、有分心が生起します;心路過程が生起する時、有分心は消失します。ジャーナ法が生起する前、有分心が存在する可能性はあります;ジャーナ法が生起する時、有分心は消失します。ジャーナ法を識別する観智が生起する時、ジャーナ法は消失します。観智はその前(訳者注=観智自身の前)のジャーナ法を識別する事ができます。というのも、それは対象と門を同時に識別するからです。対象を識別した後、修行者はジャーナに入ります。ジャーナから出てきた後、ジャーナの対象(たとえば、安般念似相)が有分意門に出現した時、彼は簡単に禅支の識別をする事ができます。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。