Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#104~112>問答(八)問8-25~8-33。9篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#104-150828

問8-25 修行者は止禅の修行をした後、自分の死亡の時刻を知る事ができますか?寿命を延ばす事ができますか?

答8-25 自分の死亡の時刻を事前に予知するのは天眼通(dibbacakkhu-abhiññāṇa)の領域です。天眼通の中に三支があり、その中の一支は、未来分智(anāgataṁsa-ñāṇa)といい、それは未来の事柄を予知する事ができます。もし、あなたが修行に精進し、かつ天眼通を得る事ができたならば、あなたは、自分がいつ死ぬか、大体の時間を知る事が出来るでしょう。しかし、もし、あなたが観禅(vipassanā)だけを修行するならば、あなたは大体の、ぼんやりした時間しか分からないでしょう。

止禅の修行をしても、修行者の寿命を引き延ばす事はできません。というのも、寿命は個人の業に依って決定されるからです。故に、もし、修行者が観禅(vipassanā)を修行して、阿羅漢果に到達しないのであれば、彼は自分の業に従って、未来への生まれ変わりを続ける事になります。

#105-150828

問8-26 仏陀が、指導者の立場として、自分の弟子を自分と同じ高尚な境地にまで指導できない時、彼は失望を感じたのではないでしょうか?

答8-26 仏陀は失望を感じる事はありません。それはあなたの想像に過ぎません。というのも、仏陀は完全に憂い、悲しみを滅したからです。仏陀は、完全に一切の衆生の境地を理解しました。彼はただ、衆生が彼らの波羅蜜を完成させる為に、彼らを支援したのです。

苦の滅の境地に到達する事はとても重要です。故に、仏陀は衆生に対して、涅槃に到達する道を教えました。一切の糞便がみな厭わしく、また同様に、一切の生命もまた厭わしいものであるが故に、仏陀は、如何なる生命も賞賛する事はありませんでした。

衆生が生死輪廻の尽きる先(すなわち、涅槃に至る事)に到達した後、一切は皆同じです。お互いに相互の差異はないのです。というのも、涅槃は一切の有為法(saṅkhāra-dhamma)の停止だからです。その時、仏陀もなければ、弟子もないのです。

#106-150828

問8-27 滅尽定(nirodha-samāpatti)に入る前、先に四つの決心(adhiṭṭhāna)をしておかねばなりません。もし、修行者が一番目の決心(いつ出定するか)を決めておくのを忘れた場合、彼は滅尽定の中で死ぬ事になりますか?それとも定から出る事はできますか?

答8-27 滅尽定に入る前、これらの聖者は常に自分の寿命について思惟しています。これは彼らの本性です。もし正念がなければ、何もできないのです。彼らは常に自分の寿命について、思惟しています。

もし、彼らの寿命が、後七日以内に終わるとして、彼らは七日以内(寿命が終わる前)に滅尽定から出て来るので、滅尽定の中で死亡する事はありません。滅尽定は、すべての名法と心生色法の停止であって、死亡心(cuti-citta)は最後の有分心で、その作用とは、死を執行する事です。滅尽定と死亡心は同時に生起する事はできません。

#107-150828

問8-28 モッガラーナ尊者は、過去にどのような悪業を成したために、あのような何世にも亘って悲惨な果報を受けねばならなかったのでしょうか?

答8-28 過去のある人生において、彼は妻が原因で、自分の両親を殺そうとしました。その時、両親は殴られて死にそうになりましたが、死にはしませんでした。

この事件を起こした中で、多くの不善思(akusala-cetanā)が生起しました。一秒の間に何十億個の不善思が生起します。もし、彼が一時間の間、両親の殺害を計画していたならば、数え切れないほどの不善思が生起したでしょう。一つの不善思は、一つの悪報を生じさせますが、こうして、この多くの、強くて力のある不善思は、次から次へと地獄(に生まれるという)悪報を生じました。その為、彼は非常に長い時間、地獄で苦しみを受けました。

地獄で苦しみを受けた後、残りの比較的弱い不善思は、人道において、悪報の実を結びました。あの不善業の為に、彼は多くの生で、苦しみの果報を受けたのです。

#108-150828

問8-29 修行者は、四禅八定の中のある一つの定か、または定の外で、天神(deva)または梵天(brahmã)と通じる事はできますか?

答8-29 できません。もし彼らと通じ合いたいのであれば、あなたは如意通(iddhividha-abhiññāṇa)を具備する必要があります。

#109-150828

問8-30 純観行者は、生滅随観智(udayabbaya-ñāṇa)によって、未来のいくつくらいの生を観察する事ができますか?

答8-30 生滅随観智の段階において、仏陀は縁起を透視する二つの方法を教えています。私はその中の一部を例にとって、説明したいと思います。

「avijjāsamudayã rūpasamudayo」:無明が生起するが為に、色が生起する。

「taṇhãsamudayã rūpasamudayo」:渇愛が生起するが為に、色が生起する。

「kammasamudayã rūpasamudayo」:業力が生起するが為に、色が生起する;

続けて、あなたは、それらの色の生起する段階を透視する事にチャレンジしなければなりません。その後では「ãhãraamudayã  rūpasamudayo」:食物が生起するが為に、色が生起する。同様に、あなたはそれらの色の生起の段階を透視する事にチャンレンジしなければなりません。全部で五種類の生起智(samudaya--ñāṇa)があります。

その次に、仏陀は五種類の消滅智(vaya-ñāṇa)を教えました:「avijjānirodhã

rūpanirodho、taṇhãnirodha  rūpanirodho、kammanirodhã  rūpanirodho、ãhãranirodhã  rūpanirodho、viparinamalakkhanaṁ」:無明の滅により、色が滅する;渇愛の滅により、色が滅する;業力の滅により、色が滅する;食物の滅により、色が滅する。

この種の滅は、一時的な滅ではなくて、完全な滅です。完全な滅は、いつ発生しますか?人が阿羅漢道(arahatta-magga)を成就した時、発生します。その時、無明、渇愛、取、行、業力は完全に消滅します。

もし、修行者が、今世において、阿羅漢道を証悟すると確定したならば、彼の未来は今世で終わります;もし、彼が未来のいつかの世で阿羅漢道を証悟するならば、彼はその世まで、識別を続ける必要があります。 無明、渇愛、取、行、業力というこの五種類の因が完全に滅したならば、五蘊も完全に滅します。この五種類の因は、彼が阿羅漢道を証悟する時、完全に滅します;果報による五蘊は、彼が般涅槃に入るとき、完全に滅します。この二種類の消滅は、完全な消滅であって、それらは二度と生起する事はありません。我々はこれを無生の滅(anuppãda-nirodha)と呼んでいます。無生の滅(anuppãda-nirodha)とは、ふたたび生起する事のない消滅、を意味します。

修行者はこの二種類の消滅を透視する事にチャレンジするべきです。ですから、純観行者は、未来の名色を、この段階まで、引き続き、識別する必要があるのです。

#110-150828

問8-31 修行者は阿羅漢道と般涅槃を証悟するまで、未来の世を識別しなければなりません。その真ん中の世では、彼の修行の状況は、確定的ですか、それとも、変更がありますか?

答8-31 《アビダンマ》は七部あります。その中の一部は≪双論 Yamaka≫と言います。《双論》の中で、仏陀は二種類の最後有者(pacchimabhavika)について述べています;最後有者の意味は:最後の人生を残すのみになった人、たとえばシャーリプトラ尊者、モッガラーナ尊者等です。彼らは確実に、この生で阿羅漢を証悟しており、変更はありえません。しかしながら、もう一種類の最後有者は、変更がありえます。たとえば、有名なアジャセ王(Ajãtasattu)、彼はビンビサーラ王(Bimbisãra)の息子です。彼には充分な波羅蜜があり、≪沙門果経 Sãmaññaphala Sutta≫を聞いた後、須陀洹道果(訳者注=前後矛盾・誤植か?)を証悟しました:ただ、彼は須陀洹道果を証悟する事はできませんでした。それは彼が自分の父親を殺害したのが原因です。この重大な不善業が、彼をして須陀洹道果を悟れなくしたのです。この種の人は、非真正最後有者と呼ばれます。

同様に、ある種の修行者について言えば、彼らは未来の世において、阿羅漢果を証悟する事は確定しています。しかし、ある種の修行者について言えば、それは確定的ではなく、状況は変更される可能性があります。

我々は、今において、未来の状況を判別する必要があります。どうしてか?未来世の名色(nāma-rūpa)を厭離するためです。これは厭離随観智(nibbidã-ñāṇa)です。もし、この種の観智が熟したならば、修行者は今世において、阿羅漢道果を証悟する事ができます。もし、この種の観智がいまだ未熟であるならば、彼は未来の世でしか阿羅漢道果を証悟する事ができず、そうであれば、状況は変わるかもしれません。アジャセ王のように。

アジャセ王の例で言えば、彼は初果須陀洹を証悟する十分な波羅蜜(pãramī)がありました。ここで言う「波羅蜜」とは、善業「kusala-kamma」の力の事で、業力の一種です。しかし、この業力は、もっと強くて力のある不善業によって妨害されてしまいました;実施に、強くて力のある不善業が、この善業の果報を破壊したのです。その不善業とは、彼が自分の父親を殺害した事です;それは非常に重い悪業で、彼が聖道(ariya-magga)を証悟するのを妨害したのです。もし、彼が自分の父親を殺さなければ、須陀洹果を証悟する事ができました。しかし、彼は自分の父親を殺害した為に、須陀洹果を証悟する事ができなかったのです。彼の過去世の善業は、果報を結ぶ事が出来ず、新しい不善業が果報の実を結んだのです。

修行者の未来世もまた、同じ事です。もし、業力が変われば、果報も変わります。果報は業力によって決定されますから、あなたは、その業力を透視するようチャレンジするとよいです。それは無明、渇愛、取などの煩悩に囲まれています。もし、煩悩の力と業の力に変化があれば、それらの果報も変化します。あなたが未来の名色法を識別している時、これあの業力と煩悩を識別する事にチャレンジしてみるべきです。

#111-150828

問8-32 無常であるがゆえに苦であり、苦であるがゆえに無我である。この三相の因と果は同じでしょうか?

答8-32 同じです。経典の中、特に《蘊品 Khandha Vagga》または《六処品 Saḷãyatana Vagga》の中で、仏陀は一つの経を教えていますが、我々はそれを《有因無常経 Sahetuanicca Sutta》と呼んでいます:「rūpaṁ bhikkhave aniccan」――「比丘たちよ。色は無常である」、「yopi hetuyopi paccayo rūpassa uppãdãya、sopi anicco、aniccasambūtaṁ bhikkhave rūpaṁ kuto niccaṁ bhavissati.」:色を作り出す因縁条件もまた無常であり、仏陀はこれらの因縁条件を二種類に分けました:因(hetu)と縁(paccaya)です。因(hetu)とは、結果を生み出す事のできる要因;縁(paccaya)は因を支える事が出きる要因。たとえば、色の因は無明(avijjā)、渇愛(taṇhā)、取(upādāna)、行(saṅkhāra)、業(kamma)です。これらの因は無常ですが、では、それらが作り出す果は、

常であり得るでしょうか?色の縁は、心(citta)、時節(utu)、食物(ãhãra)です。心は、心生色(cittaja-rūpa)を作ります;一粒毎の色聚の中の火界は、時節と言いますが、時節は、時節生色(utuja-rūpa)を作ります;一粒毎の色聚の中の栄養素は、食素(ojã)と言いますが、食素は、食生食素(ãhãraja-ojã)によって支えられた食生色(ãhãraja-rūpa)を作り出します。心、時節と食物は縁(支える要因)で、それらは無常です。因も縁も無常であるならば、その結果もまた無常であって、(両方ともに)同じく無常なのです。苦と無我もまた同じ道理です。

#112-150828

問8-33 世俗諦(sammuti-saccã)は概念法(paññatti)を基礎として打ち立てられていますが、それならば、それは邪見の一種ではないでしょうか?

答8-33 我々は、この種の見解を、世間通称我論(loka-samañña-attavāda)と言います。この種の我論(attavãda)は、微弱で、時には身見(sakkãya-diṭṭhi)ともいいます。それは微弱ではありますが、しかし、それの影響力は大きいです。どうしてか?もしこの種の見解を取り除く事ができなければ、究竟名色(paramattha-nāmarūpa)を見る事は出来ません;もし、究竟名色を見る事ができないのであれば、名色の因縁を理解する事はできません。究竟名色を識別する事ができないならば、名色識別智(nāmarūpa-pariccheda-ñāṇa)を獲得する事はできません;名色の因縁及び因果の間の関係を理解できないのであれば、縁摂聚智(paccaya-pariggaha-ñāṇa)を獲得する事はできません。

名色識別智と縁摂聚智は観禅(vipassanā)の基礎的な観智で、観禅(vipassanā)の始まりの段階にあります。もし、始まりの段階でおいてさえも、修行に成功しないのであれば、真正の観禅(vipassanā)を修行する事は出来ず、観禅(vipassanā)を修行しないのであれば、涅槃を証悟する事はできません;涅槃を証悟しないのであれば、四悪道、31界から離脱する事はできません。故に、我々は、この種の間違った見解を取り除く必要があるのです。

しかし、ある時には、戒律を制定する為に、ある時は、止禅の法門を説明する為に、仏陀も世俗諦を指導しました。仏陀が戒律(sīla)を教える時、彼は世俗諦を利用する必要があったのです。彼は以下のように言って人々を指導する事はできません:「あなたは名色を殺害してはいけない」と。彼は「あなたはその他の衆生を殺害してはいけない」と言わねばなりませんでした。「あなたは父母を敬いなさい」とは言えても、「あなたは名色を敬いなさい」とは言えません。彼は「名色、こっちに来て下さい」とは言えず、「比丘よ、こちらに来て下さい」と言ったのです。

また、地遍、安般念似相などは、ただの概念法、世俗諦に過ぎません。もし、禅定の修行を成功させたいのであれば、あなたはこれらの世俗諦に専注する必要があります。もし、段階的に安般念似相を専注するならば、あなたは第四禅に到達するでしょう。もし、段階的に地遍に専注するならば、あなたは八定に到達するでしょう。しかし、もし、名色を止禅の対象とするならば、あなたはジャーナに到達する事はできません。この事から、止禅の法門を教える時、仏陀は世俗諦も指導しました。

また、仏陀は、世間を保護する為に世俗諦を指導しました。《アビダンマ》によると、もし、父親を分析しても、我々には名色が見えるだけです;もし母親を分析してみても、我々にはただ名色が見えるだけです。もし、娘を分析してみても、我々はただ名色を見るだけです;もし、息子を分析してみても、我々はただ名色を見るだけです;もし、仏陀を分析してみても、我々はただ名色を見るだけです。このように、一切は名色である事、これは真実諦(paramattha-saccā 勝義諦;真諦)です。しかし、もし、「これは父親」「これは母親」「これは娘」「これは息子」という区別がつかないならば・・・人々は、間違った行為をして、多くの問題が発生するでしょう。もし彼らがそのようにすれば、多くの不善業が生じます。仏陀は一切衆生に無限の慈悲を有していましたから、世間を保護する為に、時には、仏陀も世俗諦を教えました。

世俗諦に基づくだけでは、涅槃を証悟する事はできません;もし、涅槃を証悟したいのであれば、あなたは真実諦を理解する必要があります。あなたは、究竟名色とそれらの因縁を透視し、次に究竟名色とその因縁の無常・苦・無我の本質を透視する事にチャレンジするべきです;このような観智だけが、修行者をして涅槃を証悟させるのです。こういう事から、仏陀は真実諦と世俗諦の両方を指導しました。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。