Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#113-#114>問答(九)問9-1、9-2

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#113-150829

問9-1 禅師、無我と空は、内容的に異なる部分があるのでしょうか?

答9-1 法句経(Dhammapada)において、仏陀は「一切法は無我である(sabbe dhamma anatta)」と開示しています。ここで言う法とは、有為法と無為法の事です。有為法は、すべての名色法を含み、無為法とは、涅槃の事です。修行者が観禅(vipassanā)の修行をする時、名色または五蘊を無常・苦・無我であると体験する時、彼は初めて、無我とは何かを、理解し始めます。彼が道智と果智を証悟する時、彼はさらに一歩進んで、涅槃もまた無我である事を理解するでしょう。

空についてですが、その意味は比較的広いです。たとえば《中部・小空経 Cūḷasuññata Sutta, Majjhima Nikāya》の中で、仏陀は「比丘が森に住んでいる時、彼の森林に対する想いは、大象、牛、驢馬、金、銀、男女の集まりなどを除いたものです。比丘が地遍を修行する時、彼の地に対する想いは、森林を除いたものです。比丘が空無辺処を修行する時、彼の無辺空虚の想いは、地想を除いたものです。その他の、更に高尚な無色界定も、同様の方式でそれらの空を理解する事ができます。比丘が観禅(vipassanā)の修行をする時、彼の想は、常、楽と我を除いたものです。比丘が涅槃を証悟する時、彼は本当の空を見ます。というのも、涅槃は、名と色を除いたもの、常と我を除き、貪、瞋恚、痴を除いたものだからです」と言っています。

#114-150829

問9-2 著書《如実知見》の中で、禅師は:「シャーリプトラ尊者とモッガラーナ尊者の阿羅漢道は上級弟子の覚智に相応する。婆醯の阿羅漢道は大弟子の覚智とのみ相応する。上級弟子の覚智は、大弟子の覚智より、さらに優れている」と説明しました。波羅蜜を積む時間の長短以外に、何か他の要因によって、この差異が生まれるのでしょうか?同じ阿羅漢なのに、なぜこのような差が生じるのですか?

答9-2 阿羅漢を証悟するという事柄について言えば、彼らの間には相違はありません。しかしながら、仏陀が《中部・個別経 Anupada Sutta、Majjhima Nikãya》の中で、「シャーリプトラ尊者は、超高尚な智慧、広大な智慧、喜ばしい智慧、早い智慧、鋭敏な智慧と通達[訳者注=物事に通じている事]の智慧を有している。彼は、仏陀が開示した簡単で短い偈を、何千種類の方式を用いて理解し、説明する事ができる。彼は各種類毎の名法及び各種類毎の色法を詳しく理解する事ができる。彼は、インド全国に同時に降った雨の水滴の数を数える事さえできる。智慧で言えば、仏陀の弟子の中で、シャーリプトラ尊者に敵う人はいません」と言っています。

モッガラーナ尊者については、仏陀の弟子の中では、彼は神通第一でした。婆醯は、最も早く阿羅漢果を証悟した人です。仏陀も阿羅漢ですが、しかし、彼は彼の一切知智(sabbaññutañāṇa)でもって、彼が知りたいと思うすべての事柄を知ることが出来ました。一切知智は、仏陀だけが備えている智慧です。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。