Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#116,117,118>問答(九)問9-4,9-5,9-6。3篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#116-150831

問9-4 通常、遺族は亡者に銀紙を焼く習慣がありますが、これは迷信ですか?(訳者注:台湾、中国等の中華文化圏では、死者が天界で豊かに暮らせる事を願って、紙幣に見立てた銀紙を焼く習慣がある)。

答9-4 南伝仏教ではこのような習俗はありません。しかし、我々は、亡者の名前、名目を利用して、よい事をする事はできます。たとえば布施等をして、その功徳を亡者に回向するのです。もし亡者が、他人が行った功徳を受け取る事の出来る、そういう餓鬼であったならば、誰かが彼に功徳を回向した事を知って、かつ、彼が、功徳に対して随喜の気持ちを起こす事ができるならば、彼はその功徳の利益を得る事ができ、かつ、善道に転生する事ができます。しかし、もし、亡者が転生して、その他の類の餓鬼、又は地獄道畜生道、人道、アシュラ道などに生まれているならば、彼は、彼に対して回向された功徳を、受け取る事は出来ません。

#117-150831

問9-5 一人でいる事が好きな人は、人付き合いが悪いと言われます。一人でいる事と、人付き合いは、どのように兼ね合えば良いですか?

答9-5 群れて生活する事は、瞑想の修行にとって良くないだけでなく、禅定と観智の修行にとって、大きな障礙になります。どのような道果を証悟しようとしていても、証悟する前は、独居し、修行に努め、決して群れて生活してはいけません。ある種の人々は、あなたの良い面を見て、あなたが本当に仏陀の教えに従って生活し、仏法の修行に精進している比丘又は比丘尼であると認識するでしょう;しかし、別のある種の人々は、あなたの事を人付き合いの悪い人だと誤解するかもしれません。他人があなたの事をどう思うかは、あなたが決められる事ではありません。というのも、あなたはすべての人に、あなたの事を、よい人だと認めてもらうのは、不可能だからです;ましてや、他人があなたの事をどう思うかは重要な事ではありません。あなたは他人があなたをどのように見るかによって、悟って聖人になったり、地獄に落ちたりする訳ではありません。

もし、あなたが人々と交流したい、付き合いたいと思うのであれば、先に阿羅漢果を証悟してからにした方がいいです;もし阿羅漢果が難しければ、少なくとも、須陀洹道を証悟する必要があります。もしあなたが、どのように修行すれば道果を証悟できるのかを知らないのであれば、賢くて能力のある指導者について学習し、道果を証悟するまで、その人の下で修行して下さい。

#118-150831

問9-6 《大空経》には、比丘は群衆から遠く離れて、一人で静かな所で暮らした方が道業を成就しやすい、と書かれています。では、大勢で一緒に修行するリトリートは、よくないのではありませんか?また、比丘尼は、群れから離れて、独居して一人で修行するのは、良くないのではありませんか?

答9-6 三種類の独居があります。すなわち、身独居(kãya-viveka)、心独居(citta-viveka)と静寂独居(upadhi-viveka)です。

もし、あなたが世俗生活を捨てて隠居したとしたら、あなたは、身独居を得た、と言います;しかし、もし、あなたの心がなお、世俗の生活と感官の享受に執着するならば、それは真正の独居ではありません。というのも、あなたには心独居が欠けているので、あなたの身独居は、単なる形式に過ぎません。反対に、あなたが群衆の中で生活していても、あなたが友人や群衆、および感官の享受に執着しないならば、あなたは独居している事になります。ちょうど仏陀が、彼自身の状況を述べている、そのような状況と同じになります。しかしながら、もし、あなたの心が揺らぎ易く、他人の影響及び感官の対象の影響を受けやすいのであれば、あなたは心身共、独居するのがよいでしょう。

ここで、私は、あなたがもっと理解しやすいように、例を上げて説明します。《吉祥経 Maṅgala Sutta》の中で、仏陀は、我々に智者と交わり、愚者とは遠く離れるようにと、注意を促してくれています。「智者と交わる」という一句は、智者に近づいて、彼と朝夕一緒にいるという事を意味しているのではなくて、智者から学び、智者から智慧を得るようにと促しているのです。「愚者から遠く離れる」という一句は、決して愚か者と一緒にいてはいけない、と言っている訳ではなく、たとえば彼に注意を促す、彼に正しい道を歩いて貰うために指導する等という事の為になら、愚者と一緒にいても構いません。このようにしても、決して《吉祥経》の指導に反する、という事はありません。一つの、明らかな例としては:仏陀がウルヴェーラ園(Uruvela Grove)にいた時、邪見を持つ拝火教の外道達と一緒にいましたが、それは彼らに邪道を放棄させる為でもありました。同様に、あなたは、他人と共に住むと同時に、独居の状態を維持する事はできます。このように、一緒に修行する事は、独居の原則に反する事はなく、ただ、あなたが「おしゃべり禅」の修行を好む時、問題が発生するのです。

もう一つ考慮しなければならない問題があります:あなたは、阿羅漢果を証悟する為の修行の道筋を理解していますか?もし、あなたが理解しているのであれば、あなたは独居して、自分一人で修行しても問題はありません。然しながら、もし、あなたがまだ十分に理解していないのならば、あなたを指導して、あなたを証悟させる事の出来る導師に頼る必要があります。これが、仏陀が《大空経》の中で述べた、大勢と一緒に住む事の利点です。

ある時、アーナンダ尊者が仏陀に:「比丘の梵行の成功・不成功の半分の原因は、善知識によって決定される」と言いました。しかし、仏陀は彼に:「比丘の梵行の成功・不成功は、完全に善知識による」と言いました。ここで言う善知識とは、あなたを指導して、阿羅漢果を証悟させる人を指します。こういう事で、もし、あなた自身が解脱を希望しており、かつ、他人が解脱するのを手伝いたいと思うならば、善知識について学習するのは、非常に大切な事なのです。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。