Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#128~#131>問答(十)問10-6~10-9。4篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#128-150902

問10-6 捨心観を基礎にして、無色界定を修行する事はできますか?

答10-6 出来ません。無色界定に到達したければ、先に、遍禅の修行をして、色界第四禅に到達しておかねばなりません。たとえば、地遍を修行して第四禅にまで到達しておき、その第四禅から出定後、無辺虚空に遍満する地遍似相を取り除く必要があります。地遍似相を取り除いた後、無辺の虚空だけが残りますが、こうして初めて、あなたは空無辺処定の修行が出来ます。捨心観は、有情の衆生を対象としている為、捨心観には取り除くべき遍処相がなく、又、無辺の虚空を得る事もできないので、捨心観を基礎にして無色界定を修行する事はできません。

#129-150902

問10-7 四界分別観を修行した後でないと、名色法を分析できないと言いますが、この事は、何の経、論に書かれていますか?

答10-7 多くの経、またそれらの註釈の中でこの事は書かれています。たとえば、≪中部 Majjhima Nikãya≫の中の《大牧牛者経 Mahãgopãlaka Sutta》及び《相応部 Saṁyutta Nikãya》の《不遍知経 Aparijanana Sutta》です。色業処の修行方法については、簡略的な修行方法は≪大念処経 Mahãsatipaṭṭhāna Sutta≫にあり、詳細な修行方法は≪中部 Majjhima Nikãya≫の《大象跡経 Mahãhattipadopama Sutta》、≪大教誡羅候羅経 Mahãrahulovãda Sutta≫、≪界分別経 Dhãtuvibhaṅga Sutta≫及び《アビダンマ論蔵 Abhidhamma Piṭaka》の中の《分別論Vibhaṅga》の《界分別 Dhãtuvibhaṅga》に書かれています。

二種類の修行者がいます:純観行者(suddha-vipassanā-yãnika)と止行者(samatha- yãnika)です。

止行者は、先に何らかのジャーナを証して、これによって心清浄を達成します。彼が更に進んで見清浄の修行をしたいと思うとき、非想非非想処を除く何らかのジャーナに入る必要があります。出定後、尋、伺等の禅支と、禅心に相応するすべての心所を観照します。それらの各々の特徴、作用、現状、近因にそって、それらの識別をしなければなりません。彼は止禅の修行をして、すでに五禅支を識別した経験があるので、彼は、これらの心所を照見する事ができます。

次に、彼はこれらの名法が依存する心所依処色、心所依処色が依存する四大、およびそこに存在するその他の種類の所造色を照見しなければなりません。同様に、彼は、それらの各々の特徴、作用、現状及び近因を識別しなければなりません。

次に、彼が五門心路過程を観照する前、先に色業処を修行しておかねばなりません。色業処を修行したことがなければ、修行者は、五門心路過程を観照する事はできません。というのも、彼は眼識、耳識などが依存する眼浄色、耳浄色などを照見する事ができないので、五門心路過程も照見できないのです。

しかしながら、止行者が、先に名法を観照するのが嫌で、色法を先に観照したいのであれば、彼は純観行者と同じ方法を取ることになります。《清浄道論・第18品》の中で、純観行者が心清浄を育成する方法は、以下のように書かれています。

「純観行者、または止行者が、名法の照見からではなく、色法を照見する事から観禅(vipassanā)を始めたいのであれば、第11品の中で四大を定義している部分に述べられている諸々の方法の中の一種類を選んで、簡略的に又は詳細に四大を識別しなければならない」。

《清浄道論》のこれらの指示に従えば、いかなるジャーナの基礎も有しないまま、直接観禅(vipassanā)の修行をしたい人は、先に簡略法、または詳細法、または簡略法と詳細法の二つともを採用して、四大を識別しなければなりません。すでに、なんらかの禅定を証しているか、またはすべての、八種類の定を証している人で、色業処から観禅(vipassanā)の修行を始めたい人、彼も同じくこのように修行しなければなりません。

色業処と名業処については、≪中部≫の註釈及び《アビダンマ論》註釈の二冊目において、以下のような記載があります:

「この二種類の内、色業処とは、簡略法又は詳細法によって四大を識別するものである」

註釈の中で書かれている、色業処の観禅(vipassanā)をどのようにするのかというこれらの指導内容は、仏陀が、純観行者または先に色業処を修行したい止行者が、簡略的または詳細に四大を識別する事から始めるようにと指導した事を表しています。もし、修行者が仏陀の教えた方法で修行するならば、彼の修行は、最も利益のある結果を生じる事でしょう。

ここで、我々は、注釈は、覚音論師が書いたものではない事を理解しなければなりません。彼は、ただ、注釈をスリランカシンハラ語からパーリ語に翻訳しただけなのです。勿論、いくつかの註釈は、疑いもなく後世の論師が書いたものですが、しかし、注釈の大部分は仏陀の時代から伝承されてきたものです。仏陀の時代、当たり前の風景として:簡潔な法話を聞いた後、比丘の何人かは、法の意味がよく理解できないので、その為、彼らは仏陀、またはシャーリプトラ、モッガラーナなどの阿羅漢、又はアーナンダ尊者などに会いに行き、彼らに詳細な説明をしてくれるように求めました。これらの解釈は、500の阿羅漢が参加した第一次結集の中に、雑蔵(Pakiṇṇka Desana)として結集されましたが、又の名を根本註釈(Mūla- Aṭṭhakathã)と言います。スリランカにおいて布教の責を負ったマヒンダ阿羅漢(arahant Mahinda)は、それをスリランカにもたらしましたが、彼は後世の人々がパーリ語のままでは、この註釈を保存する事ができないであろう事を知って、それらをシンハラ語に翻訳し、大註釈(Mahã- Aṭṭhakathã)と名付けました。覚音論師の時代になって、ある種の人々が、仏陀の教えはパーリ語で研究するべきだという考えを持っていた為、覚音論師は、すべての註釈をパーリ語に戻すために、翻訳したのです。四部の註釈の、その一部毎の、その序言の中で、覚音論師は下記のような結論を述べています:「私が今、翻訳しようとしている註釈の、その宗旨は、微妙で非常に優れている、長部などの聖典の意味・概念であり、これは仏陀及び仏陀と類似した資格の人が詳細に解説したものである。仏陀と同類の資格を持つ人とは、シャーリプトラ尊者と、その他の、経の説明が出来る、仏陀の弟子を指す。これらの註釈は、第一次聖典結集の時に詠じられたものであり、第二次と第三次聖典結集の時にも、再度詠じられたものである。それらは、マヒンダ阿羅漢によって、スリランカにもたらされ、スリランカ島に住む人々の利益の為に、スリランカの言葉に翻訳さた。私は大寺(Anurãdhapuraにあった)の長老達の観点に同調し、これらの註釈をスリランカの言葉から聖典と一致し、荘重で純粋で瑕疵のない言語に戻すための翻訳をなす」と。

《清浄道論》の中で、自分の考えを述べた部分は、ただ一か所だけ出てきます。彼は:「我々の、その事柄に対する決定は以下の通りである」と言っています(清浄道論・第13品・第123行~何版か不明)。《中部 Majjhima Nikãya》の註釈の中では、やはり一度だけ自論を述べています:「古代の尊者達は、このような観点を述べていないけれども、この点に関しては、これは私個人の見解である」(中部・Ⅰ・28~同左)。このように、非常に稀な例として、彼個人の観点が述べられています。《中部 Dīgha Nikãya・567-8》の註釈において、彼は:「私の見解は最も威信のないものであり、経に書かれた道筋・内容と合致する時にだけ受け入れるべきだ」と述べています。(長部・567-8)この事から、彼は決して自分の註釈を書いた訳ではない事が分かります。

ある種の人々は覚音論師を批判しますが、それは間違いです。彼はただ、古代から伝承された註釈を翻訳したにすぎません。たとえば、≪清浄道論≫の中の《説縁起品》は、完全に≪迷惑氷消Sammohavinodanī≫の翻訳であり、≪迷惑氷消≫自体は、≪大註釈≫の中の一部分であり、それは仏陀の多くの経(たとえば、《因縁相応 Nīdãna Saṁyutta》の全編)の中の、縁起法の教えに関する註釈なのです。多くの経の中で、仏陀は、過去世の因が現世の果となる事を教えています。たとえば、過去世の無明、渇愛、取、行、業が現世の五蘊を作る、などという事です。仏陀は、又、現世の因が、来世の果を作る事も教えました。もし、あなたが縁起の教えを認めないならば、問題が発生します。というのも、それでは、あなたは、仏陀が意義のない話をした、または嘘をついたという事を主張している事になります。また、縁起の教えが間違いであるならば、あなたは仏に成る為に波羅蜜を積む必要はないのです。どうしてか?縁起の教えを否定する事は、過去世の因が現世の果を作れるという(法則を)否定しているからです。もしそのようであるならば、過去世の原因は、あなたの現世に影響を及ぼすことは出来ない事になり、そうなれば、あなたが過去世でなした善業は全くの無駄という事になります。その上、現世の因があなたの来世を形作るのでなければ、あなたは欲望のままに生きて、殺生、偸盗、邪淫等の罪悪を行っても、来世において悪道に落ちて苦しむ危険性を心配しなくてもよい事になります。一切は、ただその時の運によって生じるのであれば、仏になる為に、少なくとも四阿僧祇劫と十万大劫を経て十波羅蜜を円満する必要もなくなります。というのも、あなたがなした波羅蜜は全部無駄・無効になるからです。

然しながら、これは一種の、非常に重大な邪見であり、無作用見(akiriya-diṭṭhi)といいます。ある種の人々は、論争して、彼らも因果の作用を観照する事ができると言います・・・たとえば、食べすぎは因、消化不良は果である、と。しかしながら、仏陀には、このような因果の教えはありません。というのも、一般の正常な人々は、皆この種の道理を知っているからです。彼らは自分の胸に聞くべきです「何がこの生で、人間として生まれてきた業因であるか?」と。まさか彼らはその業因もまた、今生で作られたものだとでも言うのでしょうか?当然そうではありません。

然しながら、もし彼らが今生に人間として生まれた業因は、今生で生じたものだと言い張るならば、彼らは善業をなし、その後に天神に生まれたいと発願すればよい。もし、現在の業因が現在の果報を生じさせる事が出来るならば、彼は、今すぐにでも天神になる事が出来るでしょう。しかし、彼は、その善業で、今すぐに天神に生まれ変わるという事は出来ないのです。どうしてか?今生で人間として生まれる事ができた業因は、過去のある一つの生からきたものだからです。

このように、縁起の教えは、想像から生まれたものではない事がはっきりしており、覚音論師が(自分の考えを)混入させたという批判は、間違っています。我々は、誠意のこもった尊敬の心で、これらの註釈に対応しなければなりません。というのも、それらは、仏陀と多くの大阿羅漢が残した教えだからです。

#130-150902

問10-8 仏陀も「夢」を見ますか?夢を見るとして、それは正念ですか?

答10-8 仏陀と辟支仏を含む、すべての阿羅漢は夢を見ません。というのも、彼らはすでに、すべての迷いと幻想を取り除いたからです。パーリ聖典の中で、これはpahīnavipallasattã(顛倒夢想からの遠離)と言います。

#131-150902

問10-9 欲界、色界、無色界の各種の善心を持つ人が、もし、人間社会に生まれたいと思った場合、発願する必要はありますか?

答10-9 必要ありません。もし人間社会に生まれたいと欲するならば、彼は欲界の善業に依る必要があります。ただ、この善業は、彼の臨終の時に熟していなければなりません。人として生まれたいと発願するかどうかは別にして、人としての生に対して執着があるならば、彼の欲界善業は、自然の法則に従って、果報を生じます。そして、臨終の時に、何か一種の色界禅または無色界定に入るならば、彼は業果の法則に従って、自然に色界又は無色界に生まれます。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。