Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#132~#140>問答(11)問11-1~問11-9。9篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#132-150903

問11-1 以前、禅師の法話で、我々の菩薩が、過去世において獅子王に生まれた時、一羽の兎が夢の中で、枝から落ちてきた果実にびっくりして、世界の末日が来ると思い、森の中のすべての野獣に恐怖をもたらしました。獅子王は、一つずつ調査して行き、最後にこれは誤解の拡散したものだと判断しました。私は好奇心からお聞きしますが、人と人とでさえも、言語上の問題があって通じ合えない事があるのに、どうして、異なる種類の動物の間で、話が通じたのでしょうか?禅師、ご説明をお願いします。

答11-1  私が思うに、それは菩薩の波羅蜜の関係で、他の動物達と意志の疎通ができたのではないでしょうか。たとえば、仏陀は説法をする時、ただ一種類の言語しか使いませんでしたが、しかし、インド全体の、それぞれ異なる方言を話す人々もまた、仏陀が何を話しているかを、はっきりと理解した、という事です。

#133-150903

問11-2 白遍の修行をする時、頭蓋骨の白色を対象に取りますが、それは相を取るのに便利な以外に、他に意味がありますか?

答11-2 実際は、私は白い花、白い石、白い布等の白色を白遍の修行の対象にしています。このように、どのような白い物でも、白遍の修行をする時の対象にする事はできます。

#134-150903

問11-3 どのようにすれば、自己と外部環境への気づきを保ち、明瞭に目覚めた状態でいられますか?

答11-3 自己と外部環境への気づきを保ち、明瞭に目覚めた状態でいられる為には、あなたは四念処を修行しなければなりません。

四念処とは、一、身念処。二、受念処。三、心念処。

四、法念処です。

身念処は、止禅と観禅(vipassanā)を含みます。そして、その他三種類の念処は、純粋に観禅(vipassanā)に属します。

あなたが安般念を修行する時、あなたは身念処を修行しています。もしあなたが誠実で尊敬の念でもって、絶え間なく修行する事が出来たならば、あなたの正念はますます強くなり、定力はますます深くなり、そして、あなたの心は、非常に静かで、目覚めた状態になります。

修行が観禅(vipassanā)まで来たとき、あなたは内部と外部の名色及びそれらの因をはっきりと見る事ができます。言い換えれば、あなたははっきりと、内部と外部の身・受・心・法を観照する事ができます。故に、もし、自分自身及び外部の環境に対して気づきと覚醒を保持したいのであれば、あなたは強くて力のある定力を育成するよう努力し、観禅(vipassanā)の修行まで進めるようにします。もしあなたが阿羅漢果を証悟する事ができるならば、それが最も好ましいです。というのも、阿羅漢は、覚醒と正念を絶える事なく保持しているからです。

#135-150903

問11-4 禅師、自分が有分心に落ちた事をどうやって検査しますか?有分に落ちないようにするには、どうしたらいいですか?

答11-4 二つの心路過程の間には、多くの有分心が生起したり滅したりしています。今この時、あなたは私の法話を聞いていますが、多くの有分心があなたの心の中に生じたり滅したりしています。これは自然な現象です。普通の人は、有分心に気づく事はできません。というのも、あなた方の定力が非常に弱いからです。しかし、あなた方が定力を近行定にまで育成する事が出来たならば、彼らの心が、ある時には、有分に落ちるという事を、理解できます。その時、彼らは、まるで自分が何も知らないという感覚を味わいます。

そうはいっても、彼らはやはり、有分心を見る事はできません。というのも、有分心の対象は、前世臨死速行心が縁に取った対象であるからです。彼らが縁起法の修行を開始し、かつ、前世の臨死速行心及びその対象を照見できた時、彼らは初めて、有分心を判別する事ができるのです。

#126-150903

問11-5 私は以前、人に聞かれて非常に困ってしまいました。禅師、小さな問題なのですが・・・仏像には髪の毛があるのに、どうして我々出家者は頭を剃るのですか?

答11-5 我々の菩薩の最後の一生において、彼がアノーマー河(the Anomã River)の川岸で出家した時、彼は自分の頭髪を、二本の指の幅の長さまで切り落しました。その時以来、彼の頭髪はずっと二本の指の幅の長さを維持して、それ以上長くなる事も、短くなる事もありませんでした。

仏陀は、比丘と比丘尼に、最も長く伸ばして、二本の指の幅の長さまでは伸ばしてよいと許可しました。もし頭髪を、二本の指の幅より長く伸ばしたならば、突吉羅罪(dukkata悪作罪)になります。故に、もしあなたがそうしたいのであれば、あなたの頭髪を指二本の幅に保ってみて下さい。

#137-150903

問11-6 誰でも禅の修行ができますか?禅の修行が出来ない人はいるのではありませんか?ある種の人々は、とても長く禅の修行をしていて、非常に長い時間を経てもなお、禅相が生じないという事はありますか?これは、業障が重いためですか、それとも、その他の事柄が原因ですか?

答11-6 禅の修行は、誰でもできます。しかしながら、ある種の人々は、どうしても禅相をえる事ができません。これは、彼らの過去の業障、または精進が足りない、または善知識の所へ行って指導を乞わない、又は方法を間違っているなどの原因があるでしょう。また同時にいくつかの原因が重複しているかも知れません。

#138-150903

問11-7 ある一人の比丘が、還俗の儀式を行ったにもかかわらず、依然として比丘の振りをしています。禅師、在家居士が、すでに還俗の儀式を済ませた比丘に供養をしたとして、どのような功徳がありますか?このようなインチキ比丘が、他人を剃髪・得度させ、かつ比丘戒を授けたならば、将来、彼はどのような果報を受けますか?

答11-7 《布施分別経 Dakkhinavibhaṅga Sutta》によると、布施を受け取るのが一匹の動物であっても、あるいは道徳のない人であっても、布施をした人は、その布施の中から、功徳を得る事はできます。しかしながら、このような功徳は、あまり優れているとは言い難いです。というのも、この布施を受け取る側によって、浄化される事がないからです。

もし比丘が、還俗した後でも、袈裟を着て、比丘であると言うならば、それは一人の賊なのです。というのも、彼は、在家居士が出家の為に供養した四種類の必需品(四事供養)を騙し取っているからです。仏陀の制定した戒律によると、彼は「賊住」の人(十波羅夷の中の一種)と呼ばれ、この人生の中では、二度とふたたび出家して比丘となる事はできません。

#129-150903

問11-8 ある人々は、涅槃の事を、断滅論に近いと疑っています。禅師、涅槃と断滅論の違いについて説明して下さい。

答11-8 断滅論とは:なんらの業因を作らなくても、人が死亡すると滅尽に到達するという考えです。反対に、仏陀の教えは、因があって初めて果がある;このような因であるから、果もまたこのようである、と(いうものです)。たとえば、無明・渇愛・取・行・業などというこれらの因がある事によって、果報としての五蘊が生じるのです。仏陀はまた、このように教えています:因がなければ果もない、と。たとえば、無明・渇愛・取・行・業のすべてが、阿羅漢によって滅し去られた時、果報としての五蘊は、二度と生起する事はありません。このように、涅槃の教えは中道であり、それは自然の定理、因果相生の法則を示しています。ある種の人々は:無明・渇愛・取・行などの因を滅し去ったとしても、いわゆる涅槃と言われるものはないと考えています。そうであれば、実際には、彼自身は、常見の人であると言えるでしょう。

#140-150903

問11-9 仏陀菩提樹の下で仏位を証悟し、同時に阿羅漢になりました。彼は初果の証悟から始めて、四果まで進む必要がありませんでした。仏陀の弟子で、前三種の果位を証悟する必要がなく、直接阿羅漢を証悟した人はいますか?

答11-9 南伝仏教に基づけば、事実は、あなたの言う通りではありません。我々の菩薩は、四道と四果を証悟する事を通して、仏果を得ました。彼は一席の瞑想の座において、四道と四果を証しましたが、二種類の道の間で、いくつかの観智が生起しただけです。すべての、阿羅漢を証悟する人は、必ず四道と四果を経なければなりません。このように、如何なる弟子であろうとも、前三種の道果を証悟しないで、直接阿羅漢を証悟する事はできません。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。