Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー問答集~#189~#192>問答(14)問13-1~13-4。4篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#189-150912

問14-1 南伝の比丘は、菩薩像(たとえば:弥勒菩薩像)に礼拝または質問、合掌等をする事ができますか?

答14-1 南伝の戒律によると、比丘は、在家、女性、天神または梵天に礼拝してはいけない事になっています。故に、もし弥勒菩薩が現在、比丘であり、戒臘(出家して比丘として過ごした雨安居の回数=訳者)が我々より高いならば、我々は彼に礼拝しなければなりません。しかしながら、もし彼の戒臘が比較的低いのであれば、我々は彼に礼拝するべきではありません。もし彼が在家、天神又は梵天であれば、我々は合掌してはいけません。もし比丘があえてそうするならば、突吉羅罪になります。

#190-150912

問14-2 須陀洹を証悟した比丘だけが真実(の)比丘であると聞きました。これは本当ですか?

答14-2 比丘には二種類あります:認定比丘と真実比丘です。凡夫比丘(puthujjana bhikkhu)は認定比丘(sammuti bhikkhu)です。認定比丘とは、仏陀の許可した方式に従って結界において羯磨法をなして比丘になったものを言います。聖位を証悟していない比丘は、凡夫であり、凡夫であれば認定比丘と呼ばれます。名前だけの比丘、という訳です。

しかし、認定比丘もまた別解脱律儀戒(比丘の戒条と威儀)、根律儀戒(根門の守護、根塵との接触において、煩悩を生起させない事)、活命遍浄戒(清浄で正しい言動によって生活する)及び資具依止戒(四種類の資具の使用目的を正しく思惟する事)を遵守しなければなりません。この四種類の戒は増上戒(adhisīla)と言います。増上戒は非常に重要です。どうしてか?もし一人の凡夫比丘が阿羅漢に出会ったとして、凡夫比丘の戒臘が阿羅漢比丘より高い時、阿羅漢比丘は凡夫比丘に礼拝しなければなりません。これは戒律で決められている事で、ゆえに、増上戒は非常に重要なのです。

#191-150912

問14-3 北伝仏教では、菩薩に52の位階があります。南伝仏教では、菩薩に異なる位階がありますか?

答14-3 南伝仏教においては、菩薩には異なる位階はありません。菩薩は智者ではあっても、彼らの間には階級的な差別はありません。

#192-150912

問14-4 菩薩の授記を受ける条件の一つは、仏陀の開示した短い偈を一首聞く前、又は聞いた後、すぐに阿羅漢果を証悟する、と。そして、その後に、四阿僧祇劫と十万大劫の長きに亘って、如理作意と大悲心を維持する、と言います。そして最後の一生で仏陀になるまでは、無明を生じ、欲楽を享受するので、菩薩はずっと凡夫でありつづけるのだ、と言います。しかし、このような事が本当であるとは、とても信じられません。

答14-4 あなたは縁起の法則を理解しなければなりません。すなわち、もし無明がなければ、貪愛は生起しません。我々の菩薩の最後の一生において、仏陀になる前、彼は自分の妻ヤソーダラー(Yasodharā)と息子ラーフラ(Rāhula)に対して貪愛がありました。ヤソーダラーラーフラに対する貪愛は、無明によると、なぜ言えるのか?観智でもって照見する時、内部も、外部も、すべて身体は、微粒子で構成されてい(る事が分かり)ます。 もしこれらの微粒子を分析するならば、我々にはただ究竟の色法が見えるだけです。これらの色法は刹那に変化しています;それらは生じるやいなや消失していて、故に無常なのです。それらは不断に生滅の危機に面しているので、苦なのです;それらは不変なる本質を有していないので、故に無我なのです。燃灯仏の時代、我々の菩薩はこのような観智を有していましたが、この観智は一時的に無明を取り除けるだけなのです。ただ、聖道のみが完全に無明を滅する事ができるので、彼にはまだ無明があったのます。無明のために、彼はヤソーダラーラーフラが存在している、と思いました。ヤソーダラーラーフラに注目する、という事は不如理作意であり、このような認識は、無明なのです。この無明のために、彼はヤソーダラーラーフラを貪愛しました。

観智が継続的に生起する時、無明は生起する事ができません。しかし、観智が生起しない時、不如理作意によって、無明は再び生起します。故に、彼が人間社会に降誕した時、彼にはまだ人生に対する愛着があり、その一生の内で仏果を証悟できるだろうと思いました。このように、彼が人としての命があると誤解するならば(意味不明=訳者)、この種の錯覚は無明(avijja)です。人生への愛着は貪愛(taṇhā)と言います。無明と貪愛によって、心には執着が生じます。無明、貪愛と執着によって、彼は善業をなしました。その善業の業力によって、彼は人間社会に生まれました。無明と貪愛によって、大人になった時、彼はヤソーダラーと結婚し、ラーフラという息子を生みました。これらは、彼が仏陀になった後に開示した最初の経《転法輪経 Dhammacakkapavattana Sutta》の中で述べられている「凡夫の行い」なのです。

唯一、正覚正等を証悟した後にのみ、彼は心の中の無明と貪愛を完全に滅する事ができました。どうしてか?彼の阿羅漢道智が、すべての無明と貪愛を徹底的に滅し去ったからです。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。