Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#193~201>問答(14)問14-5~14-13。9篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#193-150913

問14-5 至上願(abhinīhāra)を発願したい人は、先に八項目の条件を具備しておかねばなりません。その中の第二項は男性として生まれる、という事です。

仏陀も女性は仏陀に成れないと言いました。しかし、ヤソーダーラーは、かつて二万億尊仏の前で菩薩の願を発しました。彼女はなぜこのような事ができたのですか?

答14-5 彼女は菩薩になりたいという願は発してはいません。彼女はただ我々の菩薩が波羅蜜を円満成就させるのを助けたいという願を発しただけです。ちょうど今回のリトリート合宿で色々お手伝いをしているボランティアみたいなものです。

女性が仏陀になれない、という事は、女性の身分では、仏陀になれないという事を指します。しかし、女性はまず男性に転生する事はできます。男性に転生してから、八項目の条件を満足させれば、彼は仏陀から授記を受ける事ができます。授記を受けた後、彼は四阿僧祇劫と十万大劫の時間でもって、諸々の波羅蜜を実践します。波羅蜜が熟した時、彼は仏陀になる事ができます。菩薩が授記を得た後は、二度と女性として転生する事はなく、仏陀になるまでのどの生も、ずっと男性でありつづけます。しかし、彼が授記を受ける前であれば、女性に生まれる可能性はあります。

#194-150913

問14-6 菩薩はすでに多くの生、多くの劫において修行しており、観智は阿羅漢よりも強いのですから、聖者であるべきなのに、なぜ凡夫なのですか?

答14-6 菩薩の聖道智は一切知智(sabbaññutāñāṇa)と同時に生起します。一切知智を証悟する前、彼の波羅蜜は未だ聖道と聖果を証悟するほどには熟していないのです。そして、聖道を証悟していない人は皆、凡夫なのです。たとえ行捨智に到達するほどの修行をしていたとしても。

#195-150913

問14-7 どうして仏陀は、すべての弟子に行捨智までを教え、その後に願を発して、菩薩道を修し、仏陀になるように指導しなかったのですか?

答14-7 この問題は、仏陀本人に聞いて下さい。多くの経の中で:仏陀が世に出た本懐は、衆生を生死輪廻から離脱させる事、老・病・死から離脱させる事・・・など等と書かれています。仏陀の本懐は:本人は四聖諦を領悟、了解したので、弟子たちにも四聖諦を領悟、了解してほしい、と言う事です。本人は、すでに生死の苦海を渡りましたが、弟子たちにも生死の苦海を渡ってほしい、等等です。

#196-150913

問14-8 仏陀は言いました:「心、仏、衆生、この三つには差別はない」と。それならばどうして、仏陀は初めからすべての弟子に仏陀になりたいと発願させればよかったではないですか?そうすれば、人々は平等で、仏陀、辟支仏(paccekabuddha)、阿羅漢等の区別も生じなかったでしょう。

答14-8 南伝の三蔵によると、二種類の相があります:自性相(sabhāva lakkhaṇa)及び共相(samañña lakkhaṇa)です。共相とは、無常・苦・無我の三相です。もし、修行者が内部と外部の究竟名法と色法を識別するならば、彼は内部と外部の名色法はみな無常・苦・無我であると理解するでしょう。その時、一切は平等です。

それらが皆無常・苦・無我なる法であると言っても、しかし、ある種の無常・苦・無我の法と、四聖諦を領悟、了解する観智とは、相応します。ある種の無常・苦・無我の法は、四聖諦を領悟、了解する観智とは相応しません。ある種の無常・苦・無我の法は、一切知智と相応します。ある種の無常・苦・無我の法は、上級弟子の覚智と相応します。ある種の無常・苦・無我の法は、大弟子の覚智と相応します。ある種の無常・苦・無我の法は、普通弟子の覚智と相応します。この角度から見ると、それらには区別があります。

#197-150913

問14-9 北伝仏教によると、仏陀はたとえ般涅槃したとしても、現在も神通力をもって無数の応化身を変現して、引き続き衆生を救済しています。禅師はどのように考えますか?

答14-9 南伝には、一つの経があって、この事に言及しています:

ある日、一人のバラモン仏陀に会いに来て、多くの質問をしました。仏陀は一つ一つ答え、バラモンはとても満足しました。そして最後に彼は尋ねました:「あなたの弟子は、みな涅槃を証悟していますか?」仏陀:「ある人は証悟しており、ある人は証悟していません」。バラモン:「涅槃は存在しており、涅槃への道を示す事の出来る仏陀も存在しているのに、どうして、ある人は涅槃を証していて、ある人は涅槃を証していないのですか?」仏陀は彼に尋ねました:「あなたは王舎城に行く道を知っていますか?」バラモン:「知っています」仏陀:「もし、二人の人がいて、あなたに王舎城までの道を聞いたとします。一人はあなたのいう通りに歩き、もう一人はあなたの指示通りには歩かず、間違った方角へ向かいました。結果、一人は王舎城に到着しましたが、もう一人は到着しませんでした。どうしてこのような問題が起こるのでしょうか?」バラモンは答えました:「おお、ゴータマ。私は王舎城までの道を教える事はできますが、彼らがそちらに向かおうとしないのであれば、私にはどうする事もできません」仏陀:「同じ事です。諸仏はただ涅槃への道を指し示すだけで、衆生は自ら精進修行しなければなりません。ある人は涅槃を証悟する事ができ、ある人はできない。私にはどうする事もできません」このように、諸仏はただ涅槃への道を指し示すだけであって、いかなる人をも救済する事はありません。《アビダンマ論》によると、仏陀の神通は色界唯作神通心(rūpāvacara-kiriya-abhiññā-citta)であり、名法の一種です。仏陀が般涅槃する時、神通心を含むすべての名色法は滅しました。このように、仏陀の神通力もまた般涅槃の時に滅しましたので、いまだに神通力があるという事は、ありえません。

#198-150913

問14-10 涅槃の中には、常住真心があり、涅槃の常・楽・浄を享受しているのでしょうか?もし涅槃に色名がないのであれば、私はそれがどういう状況なのか、想像もつきません。

答14-10 涅槃は不可思議なもので、想像を超えています。もし常住真心があるというのであれば、心は名法ですから、涅槃に意義はなくなります。涅槃は苦諦と集諦の終焉であり、苦諦とは、四種類の名蘊を含む、五蘊の事です。涅槃は一切の名色の終焉ですから、もし涅槃にまだ常住真心が存在するならば、涅槃に意義がありません。

#199-150913

問14-11 北伝の経典では、五つの不思議というものがあります。仏陀の神通力はその中の一つです。仏陀の神通力が不可思議なものであれば、《アビダンマ論》ではどのような説明がなされていますか?

答14-11 いわゆる「神通力不可思議なり」とは、仏陀が在世の時に限ります。仏陀涅槃の後は含みません。仏陀の神通力が不可思議なだけでなく、その他の人の神通力もまた不可思議です。

#200-150913

問14-12 仏陀は般涅槃の後、再び出てきて衆生を救済する事はありません。しかし、彼は過去において、菩薩行を実践している時、多くの衆生と結縁しました。これらの衆生の得度・救済の因縁が熟した時でも、仏陀は彼らを助けに来るという事はないのでしょうか?

答14-12 菩薩と縁のある衆生は、通常、いつも菩薩と一緒にいます。彼らの波羅蜜は、往々にして、仏陀在世の時に熟します。仏陀の時代、40倍無量数の衆生が四聖諦を領悟、了解し、聖果を証悟しましたが、人数が多すぎて計算できない程です。我々の菩薩が波羅蜜を実践していた頃(の仲間は皆)、彼と縁のある衆生でした。

#201-150913

問14-13 初果須陀洹を証悟した聖者は、結婚して子供を産むことがありますか?

答14-13 あります。毘舎怯、給孤独長者などのように。仏陀の時代に、コーサラ国(Kosala)には7000万人の人口がありました。その内の500万人は果を証していた聖者でしたが、彼らの多くは、家族を持っていました。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。