Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー問答集~#237,238>問答(15)問15-28,15-29<定学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#237-150925

問15-28 禅思とは何ですか?座禅・瞑想の時、禅思は必要ですか?例を上げて説明して頂けますか?

答15-28 修行者が喜俱智相応の心で止禅または観禅(vipassanā)を修行する時、彼の[速行]心に、34個の名法が生起します。この34個の名法の中、思(cetanā)もその中の一つという事になります。それを[個別に]止禅思、観禅思と呼んでもいいですし、あなたがいうように「禅思」と呼んでも構いません。禅思とは、相応の名法が止禅または観禅(vipassanā)の目標に向かうよう促すものです。もしこの禅思が堅固で強い時、禅の修行はとてもうまく行きます。反対に、この思が弱い時、修行に精進する事はできません。故に、堅固で強い禅思は、非常に重要なのです。

しかしながら、ここにおいては、五根の方がもっと重要です。五根とは信・精進・念・定と慧です。初心者の段階では、信とは、安般念がジャーナに導く事を信じる事です。精進とは、十分な努力をもって気息を知ろうとすることです。念とは、気息を忘れない事、または心をして気息を知覚する事です。定とは心の一境性で、心を気息に固定する事です。慧とは明晰に気息を了知する事です。34種類の名法の中で、この五根は最も顕著です。もしそれらが堅固でバランスが取れているならば、修行者は迅速に、修行において成長する事ができます。

深い定力によって安般禅相が出現する時、安般禅相に専注すれば、ジャーナに向かう事が出来るという旨を、信じる事ができる<確信>が生まれます。精進とは、安般禅相の専注に努力する事です。念とは、持続的に安般禅相を憶念する事です。定とは、安般禅相に、一心に専注する事です。慧とは安般禅相を透視する、すなわち、その意味を知る事です。

五根は、観禅(vipassanā)の修行においても、非常に重要です。観禅(vipassanā)においては、信とは観禅(vipassanā)が涅槃の証悟を促し、一切の苦を滅尽する修行であると信じる事です。精進とは、四聖諦を了知・了解する事、または苦諦と集諦を了知・了解する事で、この両者はともに観禅(vipassanā)の対象です。

それらは行法(saṅkhāra)とも言います。これらの行法を忘れない、またはしっかり覚えておく事は念です。心を動揺させずにしっかりと行法につなぎとめておくのは定です。これらの行法をしっかり観察して、それらを無常・苦・無我であると了知するのは慧です。

この五根と思は同時に生起します。もし思がないならば、五根は生起する事ができません。もし、思が堅個である時、五根も強くなります。もし思が軟弱である時、五根もまた軟弱になります。故に、修行する時は、堅固な禅思が必要になります。ただし、成功のもっとも主要な要因は五根のバランスです。

もしも禅思がないとか、禅の修行への懐疑がある時、あなたは禅修行におけるいかなる成就をも、得る事ができないでしょう。

#238-150926

問15-29 観禅とは何ですか?座禅・瞑想の時、観禅は必要ですか?例を上げて説明して頂けますか?

答15-29 観禅は、パーリ語では「jhāyati」と言い、動詞で、二つの意味があります。一つは、煩悩を焼き尽くす、という意味です。もう一つの意味は、瞑想の対象を見通す事、または心を深く瞑想の対象に固定する(煩悩を焼き尽くす為)事、です。その名詞はジャーナ(jhāna)です。ジャーナは二種類に分ける事ができます。すなわち、世間ジャーナと出世間ジャーナです。これは、ジャーナの広義的な解釈です。出世間ジャーナは、永遠に煩悩を除去する事ができます;世間ジャーナは、ただ一時的に煩悩を取り除くだけです。この二種類の、煩悩を取り除く様子は、ともに煩悩を焼き尽くす、と表現されます。修行する時、修行者はジャーナに到達できるようにする為、禅観を運用して、深く心を瞑想の対象に固定させる必要があります。ここで例を上げて説明します:

修行者が止禅を修行して、初禅に入った時、彼の名法の中には5個の禅支(尋、伺、喜、楽、一境性)が存在します。この5個の禅支は止禅ジャーナと言い、それらは長時間、一時間、二時間、一日、二日等々、煩悩の生起を制止する事が出来ます。修行者が観禅(vipassanā)の修行において、行法を無常・苦・無我と観照する時、彼の観智は通常、5個の禅支と共に生起します。この5個の禅支は、観禅ジャーナと言い、それらもまた、長時間煩悩の生起を制止する事ができます。大龍大長老こそが、その良い例です:彼の止禅ジャーナと観禅ジャーナは、煩悩の生起を制止し、かつ、60年の長きに亘って、煩悩の生起しない状況を保ちました。

修行者の観智が成熟した時、道智と果智をもって涅槃を体験する事ができます。もし、彼が欲界法または初禅法を無常・苦又は無我として観照している時に涅槃を体験したのならば、彼の聖道名法の中には5個の禅支が存在しています。そして、もし、彼が第二禅法を無常・苦又は無我として観照している時に涅槃を体験したのならば、彼の道智は、3個の禅支(喜、楽、一境性)と共に生起します。これらの禅支は、煩悩を、徹底的に余すことなく焼き尽くす事ができます。修行者が阿羅漢道を証悟する時、阿羅漢道智と同時に生起する禅支は、残りの一切の煩悩を徹底的に余すところなく焼き尽くす事ができます。これらの禅支は、すべて出世間ジャーナです。

このように、止禅や観禅(vipassanā)を修行する時、「禅観(jhāyati)」――煩悩を焼き尽くす為に、心を深く瞑想の対象に固定する事――を運用しなければなりません。継続してこのように修行して、相当のレベルにまで到達したならば、止行者は、止禅ジャーナと観禅ジャーナを成就する事ができ、観行者は観禅ジャーナを成就する事ができます。そして、彼らの五根の力が十分に強くバランスを保つことが出来る時、出世間ジャーナを成就して聖果を証悟する事ができます。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。