Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#241~#248>問答(15)問15-32~15-39<定学疑問編>8篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#241-150927

問15-32 リトリート合宿で教えている法門は、外部の関係を断って、一心にこれを修習するべきものですか?(この法門は)日常生活でも修習できますか?もし出来るとして、どのようにすれば、後退しないですか?

答15-32 リトリート合宿で習った法門は、日常生活の中でも修習できます。(リトリート合宿のように)外部の関係を断って、一心に修行するのが一番よいですが、しかし、そのような条件がない場合、修行者は日常生活の中で修行するべきです。

日常生活の中で、あなたの修行が後退しないかどうかは、修行者個人の熱意と精進によります。ある種の人々は、普段仕事が忙しいとしても、修行の時は、一切の障礙を手放して、一心に修行に専念する事ができます。この種の人々の修行は後退する事はありません。しかし、ある種の人々は、完全に障礙を手放せない為、一心に専注する事ができません。彼らは忍耐力をもって、修行に精進し、努力に努力を重ねなければなりません。こういう人は、毎日いくばくかの時間を設けて座禅・瞑想の修行をし、何年か経った後で、ようやく修行の要領を体得します。その時、彼らは日常生活の中でも修行が後退しなくなります。

仏陀の時代、女性は通常は昼間の時間に寺院に行って法を聞き、座禅・瞑想の修行をしました。男性は夜の時間に寺院に行きました。彼らがこのように聞法と座禅・瞑想に精進したので、彼らの修行が後退する事はありませんでした。これが、彼らの多くが聖果を証悟する事の出来た理由です。たとえば、注釈によるとクル国(Kuru Country)のすべての人民は、みな聖果を証悟しました。たとえ台所仕事をしていても、機織りをしていても、彼らはいつも修行していたのです。

もし、修行を後退させたくないのであれば、毎日少なくとも1 時間又は 2時間、座禅・瞑想の修行に専念しなければなりません。その1、2時間の間、できれば一切の心配事、過去の思いや未来の計画を忘れて、一心に瞑想の業処に専注する事です。また、時間を浪費しない為に、正確な修行方法で実践するよう、注意を払う必要があります。あなたは徐々に掉挙、昏沈などの障礙が減り、業処に専注する時間が益々長くなります。そうなれば、修行は後退しなくなります。

#242-150927

問15-33 入出息念を修行する者は、禅相がなくても入定できますか?禅相の安定性はどのような(基準で)確定しますか?

答15-33 もし柱がなくて、とんがり屋根の屋根裏をつくっていないならば、あなたはとんがり屋根を作る事ができますか?もし、壁が無くて、柱もないなら、上の階を建てようとして、あなたはそれを建てられますか?できないでしょう?同様に、安般禅相がないならば、安般ジャーナが生起する事はありません。もしあなたが詳細を知りたいのであれば、《清浄道論》の「安般念品」を参照して下さい。

もし段階的に安般念を修習するなら、あなたは禅相を見る事ができます。あなたの定力が上昇した時、呼吸が禅相に変化します。しかし、ただあなたの定力だけが頼りです。あなたの定力が上昇し、安定したならば、禅相もまた安定してきます。

#243-150927

問15-34 忙しい人は、どのように定を修習すればよいですか?かれらは安止定を修習するに、相応しいですか?観禅(vipassanā)を修習する前には、少なくとも基礎として、近行定を打ち立てておかねばなりませんか? 

答15-34 仏陀の時代、舎衛城(Sāvatthi)には、約7000万人の人口がありましたが、彼らは在家者でした。彼らは静かな安定した心で止観の禅法を修習し、聖道智と聖果智を証悟する事に成功しました。

王舎城(Rājagaha)(の人口)は5000万人を超えていました。彼らも在家者で、また、止観の禅法を修習しましたし、聖道智と聖果智を証悟する事に成功しました。

クル国(Kuru 現在のニューデリー)100万人以上の人がいました。彼らは仕事の最中に、四念処の修行をしていました。言い換えれば、これは止観禅法であり、多くの人が須陀洹道果を証悟しました。

このように、あなたが決意固く動揺しないで修習するならば、あなたの波羅蜜によって、あなたも修習に成功して、聖者になる事ができます。

上述のように、安般念を修習するならば、あなたも成功する事ができます。しかし成功するかどうかは、あなたの気力と波羅蜜によります。もしあなたの波羅蜜が十分である時、かつ強くて力のある気力によって修行するならば、あなたもまた安般念を成就する事ができます。

もしあなたが目を閉じて色聚を見、色聚を分析する事ができ、かつ究竟色法と究竟名法及びそれらの因を識別する事ができるならば、あなたは止禅の修習をしなくてもかまいません。そうでないならば、あなたは止禅の修習をして、定力を育成しなければなりません。仏陀は《三摩地経》の中で、以下のように教えています。私はその部分の経文を読みますので、細心の注意を払って聞いて下さい。

「比丘達よ。定を育成すべし。定のある比丘は如実に諸法を了知します。彼は何を如実に了知するのか?

  1. 彼は如実に知る:『これは苦である』
  2. 彼は如実に知る:『これは苦の集(原因)である』
  3. 彼は如実に知る:『これは苦の滅である』
  4. 彼は如実に知る:『これは苦の滅に向かう道である』

比丘たちよ。定を育成すべし。定のある比丘は如実に諸法を知る。故に比丘たちよ。

『これは苦である』と知る為に、尽力しなければならない。

『これは苦の集である』と知る為に、尽力しなければならない。

『これは苦の滅である』と知る為に、尽力しなければならない。

『これは苦の滅に向かう道である』と知る為に、尽力しなければならない」。

 

#244-150927

問15-35 ある人々は、定は修しない方がよい、と言います。我々が定を修するのは観禅(vipassanā)の為です。もし、我々が定を修して、観禅(vipassanā)する前に死んでしまったら、天界に生まれる事ができますが、しかし、これは八つの不幸な期間(aṭṭa-akkhaṇa)10の内の一つです。仏法によると、八つの不幸な期間においては、仏法を理解する事はできないそうです。たとえば、もし無色界に生まれたならば、我々は仏法を聞くことができなくなります。禅師のご意見は如何ですか?

答15-35 この事は個人に願望によって決定されます。人は、止禅を修習する事が出来、かつ八定を証悟する事ができます。しかし、彼が梵天界に生まれ変わりたいのであれば、彼は今回の教化の時代にどこか任意の界に生まれたいと言う選択をする事ができます。

たとえば、婆娑主梵天(Sahampati brahmã)は、過去世においては、迦葉仏(Kassapa Buddha)の弟子であり、阿那含聖者で、八定に熟練していましたが、彼は初禅天の大梵天に生まれる事を選択しました。故に死後、彼は初禅天に生まれたのです。

同様に、瓦匠梵天11(Ghaṭīkāra brahmā)がいます。彼も迦葉仏の弟子で、やはり阿那含聖者で、同じく八定に熟練していて、死後浄居天(Suddhāvāsa)の色究竟天(Akaniṭṭa)に生まれました。

このように、教化の時代の中において、八定に熟練した阿那含は多くいます。そして、彼らの内、ある者は大梵天に生まれ、ある者は色究竟天に生まれました。なぜか?これは彼ら自身の選択によります。

この事から、今回の教化の時期12に、もし人々が八定に熟練したならば、その人は何かの一界を選択して生まれる事が出来ます。無色界に生まれる事や、名法及び心生色のない無想有情天に生まれる事を恐れる必要はありません。

あなたが恐れるとしたら、偽の観禅(vipassanā)を恐れて下さい。それこそ非常に危険なのです。

ジャーナは、特別危険という事はありません。偽の観禅(vipassanā)こそ危険です。どうしてか?偽の観禅を修習する事によって、人は涅槃を証悟する事はできなくなります。どのように精進しても、その人は、どのような道果も証悟する事ができません。覚えておいて下さい。究竟名色法及びそれらの因を見たことがないのであれば、あなたが観禅を修習していると言っても、それはただの偽の観禅であって、本当の観禅ではありません。このような観禅は、あなたにとって非常に危険なものなのです。

八定は特別危険という事はありません。もしあなたが止禅を観禅を修習する為の基礎とするならば、ジャーナの力に頼って、段階的に四界分別観を修習すれば、あなたは究竟色法、究竟名法とそれらの因、すなわち、観禅の対象を見る事ができます。これらの究竟名色法およびそれらの因は苦諦法及び集諦法であり、行法とも呼ばれます。あなたは、これらの行法を無常・苦及び無我として観照しなければなりません。これが真の観禅(vipassanā)で、偽ものではありません。この種の観禅(vipassanā)は、涅槃無為界を証悟する聖道および聖果に到達する為の強くて力のある助因になります。

#245-150927

問15-36 禅師。先ほど禅師が挙げた例は、阿那含と須陀洹であり、かつ彼らは観禅(vipassanā)に関しては非常に熟練しています。問題は、ある人が、何らの果位をも証悟しておらず、ただの凡夫でありながら、しかし、初禅から第四禅まではとても熟練しているという状況の時、これほど重い業力の下で、彼は自分の生まれ変わりを希望する場所を、選択できるのでしょうか?

答15-36 できます。しかし、彼は四禅の内の、特に好きなその中の一つの禅を修行しなければなりません。

(希望を)成就する為の基礎的な因(iddhipāda 四神足)は四種類あり、それはすなわち、欲(chanda)、精進(vīriya)、心(citta)と観(vīmaṁsa)です。「欲」は必ず堅固でなければなりません。「精進」は必ず堅固でなければなりません。「心」は必ず堅固でなければなりません。「観」は必ず堅固でなければなりません。この四種類が成就された事による基本的な因により、もし彼が、特別にその中の一つの禅を修行するならば、彼は、当該のジャーナに合致する梵天界に生まれる事ができます。ですから、怖がる必要はありません。もし彼が八定に習熟しているならば、どこか任意の場所を選んで生まれる事ができます。

#246-150927

問15-37 禅師。ここにもう一つの問題があります。もし修行者が初禅に精通しておらず、しかし近行定は証しているとして、近行定の業力は、彼をして、再度人に生まれ変わらせられるか、そして、(人として)観禅(vipassanā)の修習をする事ができますか?この問題は、特に無因者及び二因者13についての問題になります。

答15-37 可能です。この種の機会は、その人の善業と願望によって発生します。

もしその人が観禅(vipassanā)を修習したいのであれば、彼は観禅修習の機会を得られるでしょう。しかし、決定的にという訳ではありません。決定的でないと言う意味は、近行定を修習しただけでは足りないという事です。彼は観禅の出来る男性又は女性、又は比丘に生まれたいと言う誓願をしなければなりません。渇愛がない近行定だけの業力ははまた、いかなる命をも生み出す事はできません。無明、渇愛及び取によって、彼は近行定の修習をします。彼には、観禅の修習が出来る比丘、男性又は天神などになりたいという願望が必要であり、このようであって初めて、彼の業力は当該の生命を生じさせる事ができます。

人になりたいか天神になりたいか、たとえば、観禅(vipassanā)の修習が出来る人になりたいと誓願する事には、全く問題はありません。この種の願望は非常に重要です。

#247-150927

問15-38 禅師。引き続いて質問します。ある人が、臨終において、自分の希望する場所に生まれ変わろうとしている時、五個の速行心が生起します。五個の速行心は、彼の行き先を決定する事ができますか?言い換えれば、我々は近行定または安般念の定を修習するという重業を造りましたが、臨終の時に、この五個の速行心は、我々の生まれ変わる先を決定しますか?我々は、臨終の時に自分の行きたい所へ行けるようにするには、どのような心がけが必要でしょうか?

答15-38 Maraṇāsanna javana は、臨死速行心です。五個の臨死速行心がありますが、それらは支助因であって、令生因ではありません。

ここでは二種類の業が関係してきます。すなわち、令生業(janaka-kamma)及び支助業(upatthambaka-kamma)です。もし、最後の五個の速行心が善速行心であれば、かならず善趣に生まれ変わります。しかし、これらの速行心が不善である場合、死後、必ず四悪趣の一つに生まれ変わります。このように、それらは支助業であって、令生業ではありません。

臨死速行心がいまだ生起していない前、彼はすでに善と不善の令生業を蓄積しています。これらの善業または不善業が結生刹那の五蘊を生じさせ、かつ一生の内で継続して五蘊を生じさせます。

#248-150927

問15-39 安般念禅定であれば、業力は問題にならないですが、しかし、もし近行定であれば、人が死ぬときに(心が)必ず善であるという事をどのように保証しますか?もし意外な事が発生した時、どのように予防しますか?

答15-39 その時、再度、定力を育成すればよいと思います。私は大した問題ではないと思っています。しかし、彼が(定力の育成を)できなかった場合、確定的な事は言えません。故に、もしこのような意外な出来事が発生するのを恐れるのならば、我々は、須陀洹道果を証悟するよう修行に精進するのがよいです。

もし、意外な事柄が発生したならば、ジャーナもまた(善趣に行けるかどうか)確定的ではなくなります。縁摂受智、生滅智または行捨智は、あなたが死後善趣に行くのを保証します。とはいえ、道智の方がもっとよいです。こういう事ですから、修行に努力して、須陀洹道果を証悟して下さい。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。