Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー問答集~#258>問答(15)問15-49<慧学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#258-150930

問15-49 もし、自分で自分の貪愛、瞋恚と痴迷(愚かさと迷い)が全部消失したと感じたなら、その人は、自分が阿羅漢であると、宣言してもよいですか?どのようにして自己の検証をするのですか?

答15-49 我々は、煩悩というのは、三つの階層に分かれているという事を理解する必要があります。すなわち(1)潜在的な煩悩(anusaya kilesa):名色相続流の中に潜在しており、心の中には顕われていない煩悩。(2)困惑性の煩悩(pariyuṭṭhāna kilesa):心に浮かび、困惑させられる煩悩。(3)違反性の煩悩(vītikkama kilesa):人をして不善な身業または口業をなさせる煩悩。

阿羅漢は、必ず、完全にこの三つの層の煩悩を滅し去っていなければなりません。凡夫に付いて言えば、心の中に煩悩が生起していない時、彼は自分の煩悩が全部消滅したのだと感じるかもしれません。しかしながら、そのような心境は、困惑性の煩悩と違反性の煩悩が、一時的に強くて力のある観智またはジャーナによって抑えられているだけなのです。実際には、聖道智を証悟していないのであれば、潜在性の煩悩は存在します。潜在性の煩悩が存在すれば、誘発される因縁に会えば、困惑性の煩悩と違反性の煩悩は、再び生起する可能性があります。

龍大長老(Mahānāga Mahāthera)は、その有名な例です。彼は法施阿羅漢(Dhammadinna arahant)の先生で、すでに止禅と観禅(vipassanā)を60年以上修行していましたが、彼はいまだに凡夫(puthujjana)でした。彼は凡夫でしたが、しかし、強くて力のある止観の修行の力によって、60年の長きに亘って、彼の心の中には、煩悩が生起する事はなく、また、彼は戒にも清く、厳格に守りました。これらの事が原因で、彼は自分はすでに阿羅漢果を証悟したのだと思いました。ある日、彼の弟子である法施阿羅漢が自分の部屋にいながら、心でこう考えました:「ウッカヴァリカ(Uccavalika)に住んでいる、我々の先生である大龍大長老は、最も究竟の沙門であるだろうか?」と。そのように観察してみると、彼は、彼の先生がいまだただの凡夫で、もしこのまま先生に注意を促さないでいたならば、先生は臨終の時も、凡夫のままである事を、知りました。その為、彼は、神通力で先生の所へ飛んで行き、先生に礼拝し、かつ弟子の義務を果たした後、先生の傍に座りました。大龍大長老は聞きました「法施、なぜ突然、私の所へやってきたのか?」法施阿羅漢は答えます「私は尊者に教えを乞いに来ました」大長老「どうぞお尋ねなさい。私の知っている事なら、すべて答えます」そして、彼は阿羅漢しか答える事の出来ない質問を1000個出し、大長老は、一つ一つ、躊躇する事無く、しっかりと答えました。

彼は先生を称賛して:「尊者、あなたの智慧は鋭敏です。あなたはいつ、このような境地に到達したのですか?」先生「60 年前」。彼はまた尋ねます「尊者、あなたは禅定を修行した事がありますか?」先生「禅定は簡単」法施「尊者、では、一頭の大象を出して下さい」大長老は、一頭の大きな白象を出しました。法施「尊者、今、この大白象に、尻尾を立てて、耳を外に向けて広げさせ、長い鼻を口に入れて、大きな、恐ろしい声で吼えながら、あなたに向かって来るようにして下さい」大長老は言われるままにしましたが、大きな白象が自分に向かって走って来るという、恐ろしい光景を見て、大長老は飛び上がり、逃げようとしました。この時、煩悩を断じ尽くした法施阿羅漢は、先生の袈裟を掴んで言いました:「尊者、煩悩を断じ尽くした人が、いまだ怯懦しますか?」と。

この時、彼の先生は、自分がいまだ凡夫である事を理解しました。そして、彼は膝まづいて言いました「法施賢友、私を助けて下さい」。法施阿羅漢は、「尊者、心配しないで下さい。私はあなたを助けに来たのですから」こうして、彼は先生の為に一種の業処を詳しく説明し、大長老はこの業処に納得した後、行禅用の専用路へ行こうとして、三歩歩いたところで、阿羅漢果を証悟したのでした。

このような事があるので、他人に対して自分の成就を声高く言うのはよくありません。というのも、あなたは大龍大長老のように、自分を高く見積もりすぎてしまう可能性があるからです。あなたは、仏陀の教えに従って慎重に自分を検証するべきです。たとえば、須陀洹聖者は、完全に身見、懐疑、嫉妬、吝嗇と戒禁取見を滅し去っています。彼は仏、法、僧の三宝に対して、動揺する事のない確信を持っています。彼は持戒において清浄で、自己の生命を犠牲にしても、決して故意に戒を犯す事はありません、たとえ夢の中においても。時には、彼も身・口・意の方面において、過失を犯す事はありますが、しかし、彼は正直に過ちを認め、決して自己の過失を隠したりはしません。彼はすでに徹底して縁起と行法の無常・苦・無我の本質を了知したので、彼は霊魂があるとか、自我があるとかの邪見を徹底的に滅し去っています。無知な人は、二種類の「我」がいると思っています。すなわち、最高我及び生命我、と。最高我(parama-atta)とは創造主を指し、生命我(jīva-atta)とは一世から次の一世に転生する我、又は断滅する我を指します。須陀洹聖者はこの二種類の我見を断じ去っています。故に、もし、あなたに戒を犯す心が生じたり、または三宝を疑ったり、または名色法はあなたであるとか、あなたに所有されているとか思い、または世界を創造した創造主がいるとかを信じるのであれば、あなたはすでに須陀洹果を証悟しているとは言い難く、ましてや阿羅漢とは言えないでしょう。

斯陀含聖者は、貪欲、瞋恚、痴の力が弱くなっています。阿那含聖者は瞋恚と欲界の貪愛を滅し去っているので、彼は二度とふたたび怒ったり、憂いたりまたは恐れたりする事無く、また、感官の享楽についても、何らの執着を持ちません。在家者であっても、阿那含果を証悟した後は、彼は自然に金、銀、貨幣、宝などを放棄します。故に、あなたがいまだ怒り、憂いまたは恐れるならば、またはあなたがいまだ金銭などを受け取るならば、あなたはすでに阿那含果を証悟しているとは言い難い。あなたの六根が愛すべき色、声(音)、香り、感触、法という六塵に接触した時、もし、いささかでも愛着が生起するならば、あなたは阿那含果を証悟しているとは言い難い。あなたの六根が厭わしい六塵に接触した時、もしあなたがいささかでも立腹するならば、あなたは阿那含果を証悟しているとは言い難いのです。

阿羅漢は驕慢、掉挙、無明、昏沈及び睡眠を含む一切の煩悩ついて、余す所なく滅し去っています。彼は命について毛筋ほどの未練もありません。彼の諸根は安らいで静かで、すでに瑕疵はありません。彼は常に行法の無常・苦・無我の本質を照見しており、ただ彼が概念法に注意を向ける時だけ、ようやく「これは男性、これは女性、父親、息子・・・」と知るのです。故に、もしあなたが、いまだに自己の命を貪愛し、又は自己の成就に驕慢を感じる時、あなたは阿羅漢果を証悟しているとは言い難いのです。もし、あなたが、継続して不断に、常に、行法の無常・苦・無我を照見する、強くて力のある正念を備えていないならば、あなたは阿羅漢果を証悟したとは言い難いのです。

以上に説明したのは、自分で自分を検査する少しばかりの例です。あなたは、自己の禅修行の体験を、どのようにして検証すればよいのかを徹底的に理解する為に、良師の指導の下で、上座部聖典を詳細に研究しなければなりません。(完)。(翻訳文責Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。