Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#260>問答(15)問15-51<慧学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします(<#259~問15-50>は他の短編と共に、明日公開します)

#260-151001

問15-51 よい修行者になるには?

答15-51 よい修行者になる為の最も重要な事柄は、正確な禅修行の目標を定める事です。もし禅修行の目標が正しいならば、あなたの修行態度も正しいものになるでしょう。もしあなたが、ずっと正しい道を歩き続ける事ができたならば、間違った道へ迷いこむ事はありません。では、禅修行の正確な目標とは何でしょうか?仏陀は比丘戒を制定した多くの場面において、禅修行の目標について、はっきりと宣言しています。彼は言いました:

「来たれ、比丘。法はすでに善く説かれた。梵行を堅持して、離苦を究めよ」

このように、離苦を究める事こそがあなたの禅修行の正しい目標です。この目標に到達する為に、あなたは一切の煩悩を滅し去る必要があります。というのも、煩悩は苦の原因だからです。10種類の煩悩があります。すなわち、貪欲、瞋恚、愚痴(愚か)、傲慢、邪見、懐疑、昏沈、散乱、無慚、無愧です。あなたは心にしっかりと刻み込んでおかねばなりません:あなたの任務は、これらの煩悩を徹底的に滅し去る事です。しかしながら、あなたの禅修行の力が強くない時、少なくとも、これらの煩悩にコントロールされる事がないよう、あなたは努力しなければなりません。

一切の煩悩を滅し去ろうと思うならば、戒・定・慧の三学を修習しなければなりません。ただ、修行の途上では、多くの落とし穴と脇道があります。もし注意深くなく又慎重でないならば、あなたは自分の修行における部分的な成功によって、煩悩の落とし穴に落ちたり、脇道に入ってしまう可能性があります。これこそが、仏陀が《小心材比喩経》(Majjhima Nikãya、Cūḷasāropama Sutta)を開示した理由でもあります。彼は言いました:

「ここにおいて、ある種姓の人が、確信に基づき、家庭生活を捨て離れ、出家しました。そして心の中でこう思いました『私は生、老、死、愁い、悲嘆、苦しみ、憂い、悩みの害を受けた、私は苦の受難者、犠牲者である。この一切の諸々の苦の終点は必ず知られなければならない。』このように(考えて)出家した後、彼は供養、尊敬と名望を得た。彼はその供養、尊敬と名望を楽しみ、目標は達せられたと思った。この事から、彼はこのように自己を賛美し、他人を蔑視した:『私には供養、尊敬と名望がある。しかし、他の比丘は無名であり、取るに足りない』と。故に、彼は修行の願望を発する事もなく、比丘の供養、尊敬と名望よりももっと高度で優れたその他の境地を得る為の、更なる精進をする事もなかった。彼は後退し、怠けた。私は、この人はまるで、心材を必要としていて、一本の、心材を備えている大木を見つけたのに、大木の心材、辺材、内層樹皮及び外層樹皮を見落として、木の枝と木葉を切り落とし、それらが心材であると誤解して持ち去った人のようだと言うのです。このように、この人が、それらの、心材を用いて作業をしなければならないどのような仕事の時も、彼の目標は達せられる事がないのです。」

これは《小心材比喩経》の中で触れられている第一番目の修行者で、彼は供養、尊敬と名望によって驕慢と自己満足を感じ、故に、彼は煩悩の落とし穴に落ち、脇道に逸れてしまい、その為、禅修行の本当の目標に到達する事ができませんでした。続いて、仏陀は、以下のように、二番目の修行者について開示しました:

「彼は供養、尊敬と名望を得た。彼は供養、尊敬と名望を楽しまない。彼の目標は未だ達成されていない。彼は、この事から自己を賛美し、他人を軽視する事はなく、修行したいという願望に従って、供養、尊敬と名望より高尚で優れているその他の境地に到達するため、精進し、後退する事も、怠ける事もなかった。そして彼は戒行において、成就を得た。彼は戒行の成就を楽しみ、目的は達成されたと思った。この事が原因で、彼はこのように自己を賛美し、他人を軽視した:『我は持戒において清浄で、品行がよく、その他の比丘は持戒が不清浄で、品行が悪劣である。』こうして、彼は修行の願望を発する事無く、持戒の成就より更に高尚で優れているその他の境地を、精進によって達成しようとはせず、彼は 後退し、怠けた。」

仏陀は、この種の修行者は、外層樹皮を心材と誤解した人だ、と言います。戒行の成就に驕慢と自己満足を覚え、故に、煩悩の落とし穴に落ち、脇道に逸れてしまい、禅修行の本当の目標に到達する事ができませんでした。次に、仏陀は、三番目の修行者について、以下のように開示しました。

「彼は供養、尊敬と名望を得た。彼は供養、尊敬と名望を楽しまない。彼の目標は未だ達成されていない。彼は、戒行の成就を得た。彼は戒行の成就を楽しんだが、しかし、目標は未だ達成していない。この事から彼は自己を賛美し、他人を軽視する事はなく、修行したいという願望に従って、供養、尊敬と名望より高尚で優れているその他の境地に到達するため、精進し、後退する事も、怠ける事もなかった。そして彼は定力において、成就を得た。彼は定力の成就を楽しみ、目的は達成されたと思った。この事が原因で、彼はこのように自己を賛美し、他人を軽視した:『私は専注と心の力の集中が出来、その他の比丘は専注が出来ず、心は散漫である。』こうして、彼は修行の願望を発する事無く、定力の成就より更に高尚で優れているその他の境地を、精進によって達成しようとはせず、彼は 後退し、怠けた。」

仏陀はこの種の修行者を、内層樹皮を心材であると誤解した人のようだと言っています。彼は定力の成就によって傲慢になり、自己満足に陥りました。こうして彼は煩悩の落とし穴に落ち、脇道に迷い込んでしまい、本当の目標に到達する事ができませんでした。仏陀は四番目の修行者について、以下のように開示しました。

「彼は供養、尊敬と名望を得た。彼は供養、尊敬と名望を楽しまない。彼の目標は未だ達成されていない。彼は、戒行の成就を得た。彼は戒行の成就を楽しんだが、しかし、目標は未だ達成していない。彼は、定力の成就を得た。彼は定力の成就を楽しんだが、しかし、目標は未だ達成されていない。この事から彼は自己を賛美し、他人を軽視する事はなく、修行したいという願望に従って、定力より高尚で優れているその他の境地に到達するため、精進し、後退する事も、怠ける事もなかった。そして彼は知見において、成就を得た。彼は知見の成就を楽しみ、目的は達成されたと思った。この事が原因で、彼はこのように自己を賛美し、他人を軽視した:『私は知見をもって生活しているが、その他の比丘は知見をもって生活していない』こうして、彼は修行の願望を発する事無く、知見の成就より更に高尚で優れているその他の境地を、精進によって達成しようとはせず、彼は 後退し、怠けた」

仏陀は、この種の修行者は、辺材を心材と誤解した人のようだと言います。彼は知見の成就に傲慢と自己満足を感じたので、煩悩という落とし穴に落ち、禅修行の本当の目標に到達する事ができませんでした。註釈の解説では、「知見」とは天眼通の事を言う、すなわち、普通の人には見えがたい微妙な色法が見える能力の事を言います。次に、仏陀は五番目の修行者を以下のように開示しました。

「彼は供養、尊敬と名望を得た。彼は供養、尊敬と名望を楽しまない。彼の目標は未だ達成されていない。彼は、戒行の成就を得た。彼は戒行の成就を楽しんだが、しかし、目標は未だ達成していない。彼は、定力の成就を得た。彼は定力の成就を楽しんだが、しかし、目標は未だ達成されていない。彼は知見を成就した。彼は知見を楽しんだが、しかし、目標は未だ達成されていない。この事から彼は自己を賛美し、他人を軽視する事はなく、修行したいという願望に従って、知見より高尚で優れているその他の境地に到達するため、精進し、後退する事も、怠ける事もなかった。」

この種の修行者は、上述の種々の成就によって傲慢になったり自己満足に落ちたりせず、煩悩の落とし穴に落ちず、ずっと正しい道を歩き、引き続き止禅と観禅(vipassanā)の修行を段階的に実践しています。そして最後には禅修行の本当の目標に到達しました。経では「智慧を用いて徹底的に見て、彼は諸々の漏を滅し去った」と言っています。

「諸々の漏」とは「諸々の煩悩」と同義です。この部分の経文の意味は:彼は阿羅漢道智によって徹底的に、一切の煩悩を滅し去った、よいう事です。仏陀はこの種の修行者について、以下のように述べています。

「私は、この人は、心材を必要としていて、心材を探し、各地に心材を求めて、一本の心材を備えた大木を見つけ、ただ大木の心材だけを切り取り、それが心材であることを知っていて、それを持ちかえった人だ、と言う。このように、この人が心材を用いて作業をしなければならないどのような仕事の時にも、彼の目標は達せられるでしょう。」

そして、仏陀は以下の話で彼の開示を総括しました。

「故に、この梵行の生活は、供養、尊敬と名望をその利益とせず、戒行の成就をその利益とせず、定力の成就をその利益とせず、知見をその利益とせず、ただ動揺する事のない、心解脱をもってその目標、心材及び終点とするのである」と。

註釈ではいわゆる「動揺する事のない心解脱」とは、阿羅漢果の事であると解説しています。阿羅漢果とは、上述にある阿羅漢道智の結果です。故に、あなたがもし、心から、この経本に書かれている五番目の修行者を模範として見習うならば、いつの日か、あなたもまた一切の煩悩を滅し去る事が出来、動揺する事のない心解脱を成就し、一切の苦からの離脱を究める事ができます。これが最も良き修行者になる方法です。(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṁ me puññaṁ nibbānassa paccayo hotu)。