wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

パオ・セヤドー問答集~#268、#269問答(15)問15-59、15-60<仏法疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#268-151003

問15-59 禅師。死後遺体が腐敗しない事についてどうお考えですか?それは修行の目的でしょうか?

答15-59 仏陀は開示して言いました:「衆生の心願は、その清らかな戒行によって達成される」と。(死後)遺体が腐敗しない人々は、この世かまたは過去世のどこかで持戒が清浄だったのでしょう。清浄なる戒行を基礎に、死後遺体が腐乱しないようにと、発願します。その善業力が熟した時、彼らの肉体は、死後、長く腐敗しないでいられます。

緬甸(ミャンマー)には、こういう例があります。ある一人の人が、ある女性が死後、その遺体が、とても長い時間経過したにも関わらず、生きたままのようで、腐敗した様子が一つもない事を発見しました。しかし、彼女は、在世の時、本当の仏教徒であったわけでもなく、戒律を守っていたわけでもありません。このような状況の下で、遺体が腐乱しないというのは、彼女の過去のどこかの世で、持戒が清浄であった事及び発願が原因ではないか、と言われています。

然しながら、長期的に見れば、彼らの遺体は、結局は崩壊して消失します。というのも、「諸行無常」であって、色身を含む一切の行法は皆、無常だからです。状況がどうあれ、これは決して修行の目的ではありません。修行の目的は、一切の煩悩を滅し去り、苦の境界を究極的に離れる――涅槃を証悟する事だからです。

#269-151003

問15-60 聞くところによると、仏陀が当時の信徒に説法する時、ほとんどは施論、戒論、生天論から始め、その後に信徒の機根に応じて、諸欲の災い及び苦集滅道の諸仏の真実を開示する、との事です。どのように布施をすればよいのでしょうか?生天論とは何ですか?諸欲の災いとは何ですか?

答15-60 このような教え方は「次第説法」(anupubbikathā)と言います。仏陀は必要な時にだけこの方法、すなわち段階を追って教えました。戒と定がすでに清浄である比丘には、仏陀は直接観禅(vipassanā)を指導しました;最初の五比丘がよい例です:彼らが須陀洹を証悟した後、仏陀は彼らの為に《無我相経》を開示しました。ただ観禅(vipassanā)だけを指導し、戒についても、定についても語られていません。持戒は清浄であるけれども、定力が足りない比丘については、仏陀は禅定の修行方法から教えました。《小空経》(Cūḷasuññta Sutta)はその一つの例です。《小空経》では、仏陀は世間八定及び滅尽定を教えています。持戒がいまだ清浄でない人については、仏陀は戒の説明から始めました。例えば《意願経》(Ākaṅkheyya Sutta)のように。布施論、持戒論、生天論などを聞く必要のある人、特に在家居士に、仏陀は「次第説法」を開示しました。

幸福の果報を得る布施の方法については、《中部・布施分別経》(Majjhima Nikãya、Dakkhiṇāvibhaṅga Sutta)が、我々に多くの方面における知識を提供してくれています。この経の中で仏陀は14種類の、個人に対する布施に付いて述べていますが、それは仏陀への布施から始まって、道徳のない人への布施、また畜生への布施までを述べています。一つ一つの布施は、それぞれ利益はありますが、受け取る人の徳が高い程、布施のもたらす利益は大きくなります。また、布施を同じレベルの人にしたとしても、その利益は、布施をする人の動機によって異なります。たとえば、見返りを期待しない清浄心による布施の利益は、見返りを期待して行う汚れた心で行う布施より、大きな利益があります。

布施は、布施をする者又は布施を受け取る者、またはその双方の、清浄なる徳行によって浄化されます。浄化された布施は優れた利益をもたらします。故に、もし布施によって優れた果報を得たいと願うならば、下記の5つの条件を備えているべきです。

  1. 布施する者の戒が清浄。
  2. 布施された品は、正当な方法で得たもの。
  3. 布施をする者の心が清らかで汚染されていない(見返りを求めない)。
  4. 布施する者に業果の法則に対して、堅固な確信がある。
  5. 受け取る者もまた戒が清浄である。

この5項目の条件を具備している布施は、非常に大きな果報を生じせしめます

。しかしながら、仏陀は、このような布施を称賛しませんでした。というのも、この種の布施は、未来の世の生まれ変わりを生じさせるからです。転生があれば、必ず、老い、病、死、愁い、悲しみ、苦、憂い、苦悩があるからです。仏陀はもう一つ、別の布施を讃嘆しました。彼は《布施分別経》の中で、以下のように開示しました。「比丘達よ。一人の阿羅漢が、清らかで汚染されていない心でもって、業果の優れている事を信じ、如法によって得た物を、もう一人の別の阿羅漢に上げるとするならば、この布施は世間にあるすべての布施の中で、最も崇高なものである」と。

このような状況には、以下のような5つの条件が必要です。

  1. 布施するのは阿羅漢。
  2. 布施の品は、正当な方法で得られたもの。
  3. 布施する者に清らかで穢れていない心があること。
  4. 布施する者に業果に対して強固な確信がある事。
  5. 受け取る人もまた阿羅漢である事。

この種の布施は、未来の転生を生じさせる事がありません。その為に、老い、病、死、愁い、悲しみ、苦、憂い、苦悩が生じるという事もありません。これが、仏陀がこの種の布施が最も崇高であると、讃嘆して言った理由です。

しかしながら、もし布施する者が未だ阿羅漢を証悟していない時、彼は如何にしてこの種の布施をする事ができるのか?《難陀母経》(Nandamātā Sutta)の中で、仏陀は二種類の方法を教えています。布施する者と布施をされる者の双方が、すでに貪欲、瞋恚、痴を厭離している事、又は双方共に貪欲、瞋恚、痴を滅し去る為に修行に努力している事。この種の布施もまた、最も崇高であるとみなせます。この様な状況においては、布施する者は布施をする時に観禅(vipassanā)、すなわち、自分の名色法、受け取る側の名色法及び布施の品の究竟色法がみな無常・苦・無我であると観照します;彼はまた、布施の前、布施の最中、布施の後の善名法もまた無常・苦・無我であると観照しなければなりません。このような布施は、通常、来世の転生を生じる事がありません。もし生死輪廻を解脱したいのであれば、この様な布施を実践して下さい。

持戒については、比丘は比丘戒を守らなければなりません。在家居士は少なくとも5戒(を守るべき)です。できれば一生涯持戒するのが一番よいです。しょっちゅう戒律違反をするのは良くありません。在家居士でも条件が整えば、8戒または9戒(navaṅga-uposatha)を守るべきです。いわゆる「9布薩支」とは8戒を守る時、慈心観も修行する事を言います。これは《増支部・九法集》(Aṅguttara Nikāya。Naveka-Nipāta)の中に記載されています。持戒は人が地獄に行って、身を焼く苦しみに落ちないようにしてくれます。戒行が禅定と観智によって取り囲まれている時、この種の戒行は優れて力のあるものになり、人が地獄に落ちるのを防ぐ事ができます。もし、聖者の喜ぶ戒(ariyakanta-sīla)、すなわち、聖果の証悟を得たならば、今後、地獄に落ちる事は決してありません。

(生)天論(sagga-kathā)は、天界の楽しさ、善の果報の解説をしたものを言います。我々は天界の楽しみを推し量る事はできません。もしあなたが知りたいのであれば、あなたは自分自ら、そこへ行って見てください。たとえば、彼らの宮殿は非常に華麗で金・銀及び各種の財宝で作られていて、(何を楽しむかは)それぞれ個人の過去の業力で異なっています。ある宮殿は長さと幅がそれぞれ3由旬で、ある宮殿は長さと幅がそれぞれ40由旬です(1由旬は約11kmに相当)。

諸欲の災いに関しては、仏陀は色々な方式で解説しています。《中部・哺多利経》(Majjhima Nikãya、Potaliya Sutta)の中で、仏陀はいくつかの比喩をもって、欲楽に沈潜する危険性を説明しています:一匹の飢えた犬が肉のついていない骨をかじる事によって飢餓と衰弱を解決する事ができない、すなわち、感官の欲楽は肉のついていない骨のようなものだ、と。また、一羽の禿鷹が一切れの肉を銜えて空を飛んでいる時、彼は他の鷹の群れに追われ、襲われる、すなわち、死亡や致命的な苦痛に見舞われる・・・感官の欲楽はその肉のようだ、と。人が燃えしきる松明を手にもって、逆風の中を進めば、彼は松明の火によって焼かれて死亡するか、致命的な苦痛を味わう事になる;感官の欲楽はまるで火のついた松明のようである。人が、炭火が燃え盛っている穴に落ちたら、彼は焼かれて死亡するか、致命的な苦痛を味わう事になる;感官の欲楽はまるで炭火の燃え盛る穴に落ちるようなものである。人が夢の中で素敵な花園を見ても、目が覚めればその花園など跡形もないように、感官の欲楽は夢のようなものである。人が誰かから物品を借りてきて使い、貸主がそれを回収に来た後、借主は虚しさを感じるけれども、感官の欲楽は、借りてきた品物のようである。人が果樹に上って果実を取ろうとしている時、誰かがその木を、木の根元から切り倒してしまった時、木の上にいた人は死亡するか致命的な苦痛を味わう事になる。感官の欲楽はその果樹のようである。このように、感官の欲楽は多くの苦痛と絶望を齎します。感官の欲楽の中には、非常に大きな危険が潜んでいます。これが欲楽の災いです。

《中部・摩犍地耶経》(Majjhima Nikãya、Māgandiya Sutta)の中で、仏陀が挙げた例の一つは:

「・・・マーガンディヤ、感官の楽を享受したいという欲から離脱していない衆生は、欲愛の責め苦に会い、欲熱に焼かれていながら、なお感官の享楽に沈潜しています。このように感官の享楽に増々沈潜する衆生は、欲愛も増々強烈になり、欲熱によって増々焼かれる事になります。このようでありながらも、彼らは五欲の楽に沈潜する時、彼らは何ほどかの満足と享受を感じるのです。

このように、感官の欲楽の災いの一つは、人をして増々深く沈潜せしめ、自分で抜けだすことができなくなる事です。最後には滅亡に向かうか、悪道における悪の果報を長期間、受ける事になります。

仏陀は《六処相応・燃火之教経》(Saḷāyatana Saṁyutta、Ādittapariyāya Sutta)の中で、塵相に執着する危険について述べています。彼曰く:

「比丘達よ。一本の、赤く燃えた、燃え盛る、熾烈な、灼熱の鉄釘によって眼根を刺されたとしても、眼根に対する色塵の相(の状態)と特徴に執着するよりは良い。というのも、もし心識がその相(の状態)又は特徴の好みに束縛され、そして万一、その人がその一瞬に死亡するならば、彼は二趣の内の一趣、すなわち、地獄または畜生道に生まれるでしょう。私にはこのような危険が見えるので、このように言うのです」。

そして仏陀は、同じ方式でもって、声(音)、匂いなどに執着する危険性を説明しました。人が地獄又は畜生道に生まれ変わる理由とは:一生の内の最後の一つの速行心――臨死速行心――は、次の世の転生を決定します。もし、愛欲またはその他の煩悩が原因で、不善なる臨死速行心が生起したならば、死後彼は悪道に生まれ変わる事になります。例を上げると、スブラフマ天神(Subrahma Deva)の500人の天女は、天界の感官の欲楽を享受している時に死亡し、死後、地獄に生まれました。感官の享楽に対する愛欲の為に、彼女たちの臨死速行心は、貪と相応する不善心でした。熟したこの不善業力は、彼女達を地獄へと導きましたが、この種の業を「近業」(āsanna-kamma)と言います。その意味はすなわち、臨終の時に、過去になした業又は臨終の時になした業を思い出す、という事です。スブラフマ天神は、彼女たちの不幸な境遇を見、かつ自分自身も七日後には、同じ地獄へと生まれ変わる事を知って、非常に憂いました。そして、彼は残りの500人の天女を連れて、仏陀の所へ助けを求めに行きました。仏陀の説法を聞いた後、彼たち全員、須陀洹果を証悟し、永遠に悪道に堕ちる危険性から離れる事ができました。以上の事から、我々は諸欲の災いと諸欲を離れる重要性を理解する事ができます。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。