Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#271~#275>問答(16)問16-1~16-5<困難克服編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#271-151005

問16-1 リトリート合宿に来る前、心と身体は、どのような準備が必要ですか?

答16-1 家にいる時、常に禅の修行をして下さい。たとえば、朝一時間座禅し、夜寝る前に一時間座禅します。これは心と身体を座禅に慣れさせる為です。何か世俗の事柄でやっておかねばならない事があるならば、リトリートの前か、後でやって下さい。もし、禅修行の時に、ずっとこの事を考えているならば、一心に心を打ち込んで修行する事ができませんし、深くて厚い定力を育成する事もできません。リトリートの期間、あなたは一時的にそれを横においておかねばなりません。強くて力のある禅修行の波羅蜜を積むために、この得がたきリトリートのチャンスを尊重し、よりよく用いなければなりません。

問16-245 A- 普段は仕事、家業、家庭の瑣事や家庭生活に忙しい人が、リトリート合宿に来て、獲得するものがありますか?B-仏陀は、結婚生活について禅修行がとのような影響を及ぼすか、何か言っていますか?もしあれば、どのような事ですか?C- リトリート合宿から仕事に戻ると、日常のリズムは非常に早いです。リトリートでは、すべてがとてもゆっくりで静かです。仕事をする時、どのようにすれば平静と安寧を保てますか?D-初禅から第四禅の五自在を成就した後、もし生活が放逸で、たとえば、食べる、飲む、遊ぶ、楽しむ、映画を見る、歌う、踊るなどなんでもアリな場合、又は普段の仕事が非常に忙しく、又は身体が病弱であるとかである時、毎日禅定の修習をしたとして、禅定が退歩する事はありますか?あるならばどうしてですか?(45注 四人が共通の質問をしたので、一括して答えます)

答16-2 仏陀の時代、舎衛城には7000万人の市民がいました。その内の5000万人は仏陀の在家聖弟子でした。王舎城には5000万人の在家聖弟子がいました46。毎朝彼らは食べ物を準備してサンガに供養しました。午後、在家の女性弟子は寺院に行って経を聞き、禅の修行をして、夕方家に帰りました。在家の男性弟子は夕方お寺に行き、経を聞いて禅の修行をし、翌朝、家に帰りました。彼らはこのように一生懸命仏法の修行をしたので、仏陀の時代には、多くの聖弟子がいました。

もし、真実の、信心のある仏弟子になりたいのであれば、あなたは彼らに学ばなければなりません。というのも、聖弟子だけが、仏陀に対して不動の信心を持つからです。あなた方が、現代式の在家仏弟子になってはいけません。あなた方は、現代式の在家仏弟子とはどのようなものか、ご存知ですか?彼らは、一週間の内、ただ何時間かだけ忠実な仏弟子で、特に日曜日の、僧への供養と経を聞くときだけは、です。しかし、彼らはほとんどの時間、テレビや映画を見、音楽を聞き、新聞を読み、買い物に忙しく、無駄話が好きな忠実な弟子なのです。皆さんは、どちらの忠実な弟子になりたいですか?

欲楽を享受すると同時に、深くて厚い定力を保持する事は不可能です。というのも、欲楽における貪欲は、五蓋の内の一つだからです。もし、本当に成就したい、または禅定を保持したいのであれば、欲楽への貪欲は捨て去らなければなりません。自分の煩悩をもって、時間がなくて修行ができない、という口実にしてはいけません。実際には、こういう行為はあなた方にとって、有害なのです。というのも、あなた方の悪業は、この種の言い訳を受け付けず、あなた方を、次の世において悪道に引きずり込むことになるからです。あなた方は悪道に行きたいのでしょうか?

もしも、禅修行に関して成就を得たいのであれば、あなた方は、長時間禅の修行をしなければなりません。三週間の禅修行はとても短く、あなた方は大きな成功を望むべきではありません。我々は、あなた方在家が非常に忙しく、又色々問題を抱えているのを知っています。あなた方、これほど多くの人々の世俗の生活が、これほど多くの困難に面しているのであれば、私はあなた方に一つの提案をします――出家しなさい!

273-151005

問16-3 もし在家でも涅槃を証悟できるのならば、なぜ仏陀は比丘と比丘尼サンガを成立させたのですか?  

答16-3 在家の生活は非常に忙しく、多くの責任が伴います。彼は仕事もしなければならず、妻子と子供の世話もしなければなりません。このような状況の下で、たとえ清浄なる五戒であっても、守るのは難しく、ましてや深くて厚い定力と鋭敏な観智を育成して涅槃を証するのは、なおさら難しいのです。仏陀の時代、在家は十分な波羅蜜を有していたので、涅槃を証する事ができました。しかし、現代の在家衆は、涅槃を証する事が難しいのです。こういうことから、仏陀は比丘と比丘尼のサンガを成立させ、誠心誠意仏法の修行に励もうとする人が、世俗を離れて出家して修行できるようにしました。

比丘と比丘尼のサンガを成立させたもう一つの理由は、仏法が伝えた三種類の教え、すなわち、教理、実修及び実証を保つためです。仏教聖典を完全に精通しようとするのは、とても大変な事です。これほど多くの在家がいても、ほんの少しの人間だけが、一部分の聖典学べるだけです。しかし、多くの比丘は、聖典に精通する事ができます。仏教聖典が存在していさえすれば、未来の人々もそれに従って、定力と観智を育成し、又、涅槃を証悟する事もできるでしょう。

#274-151005

問16-4 私は、禅の修行をしている人に、強烈な驕慢心を感じる事があります。禅を学ぶと、人の驕慢心を増長させる事があるのでしょうか?自分は他人より、よく座っていると思いたがる驕慢な心は、どのようにすれば降伏できますか?

答16-4 定力と観智は、驕慢心を一時的に鎮伏するだけです。ただ阿羅漢道智だけが、驕慢を取り除く事ができます。故に、禅修行者がいまだ阿羅漢道智を証悟していないならば、彼には驕慢な心が存在します。もしあなたが本当に驕慢を降伏したいのならば、阿羅漢道智を証悟するまで、修行に精進して下さい。

#275-151005

問16-5 禅師は以前の法話で、禅の修行自体は、利益があり、危険性はない。危険なのは、修行の後、生起する驕慢と執着である、との事でした。禅師にお伺いします。修行者は、どのようにして生起した驕慢と執着に気が付き、それを生起させないようにしますか?

答16-5 もしあなたが名業処を修行できるならば、驕慢と執着が生起した時に簡単にそれを察知する事ができます。たとえまだ名業処の段階まで修行していないとしても、驕慢と執着を察知するのは難しくありません。というのも、それは非常に鮮明だからです。たとえば、もし、あるジャーナを証した修行者がいまだジャーナを証しえていない人を馬鹿にするならば、彼には驕慢心が生起したと言えます。誰かと自分を比較して、誰それがより優れているという思い、たとえば「彼の方が上、私の方が上、彼と私はおなじくらい」という思いがあれば、それもまた驕慢心なのです。

パーリ聖典の中に、驕慢に関する物語があります。有る時、アヌルッダ尊者は、シャーリプトラ尊者に尋ねました「私は一個の天眼神通心によって、一千個の世界を照見する事ができるのに、なぜ解脱を得る事ができないのでしょうか?」と。シャーリプトラ尊者は、「あなたが『私は一個の天眼神通心によって、一千個の世界を照見する事ができる』という時、それは驕慢心です。あなたが『なぜ解脱を得る事ができないのでしょうか?』という時、それは掉挙なのです」と答えました。シャーリプトラ尊者の答えを聞いて、アヌルッダ尊者は、遂に、驕慢と掉挙は、解脱に向かう為の障礙になる事を理解しました。

驕慢と執着を取り去る為には、観禅(vipassanā)の修行ができる修行者は、一切の名色法を無常・苦・無我と観照しなければなりません。観智の、当該の三相を見通す力によって、彼は徐々に、諸行の常想、楽想及び我想を取り除く事が出来、そうする事によって、驕慢と執着を弱める事ができます。彼が観禅(vipassanā)の修行を通して、阿羅漢道を証悟した時、当該の聖道は完全に、一切の煩悩を根元から滅し去る事ができ、それらが永遠に二度と生起しなくなるように、できます。

まだ観禅(vipassanā)の修行を始める事が出来ない人は、如理的、合理的な思惟でもって、驕慢と執着を降伏する事ができます。「驕慢と執着は、私にとって有害であり無益である。それは、我々を次の世において、四悪道の中に引きずり込むだろう。故に絶対に、傲慢であったり執着したりしてはいけない。自分を守るために」又は「究極的には、世の中には、我々が驕慢であったり、執着するに値するものはない。それなのに、なぜ驕慢であったり、執着したりする必要があるのか?」などと思惟します。如理的、合理的な思惟を通して、我々は驕慢と執着の危険性を見てとり、それらを放棄するのです。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。