Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#315~#325>問答(16)問16-45~16-55<四護衛禅編>11編。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#315-151009

問16-45 禅師にお尋ねします。《清浄道論》では、仏随念に関する説明で、仏像を観るようにとは言っていません。どうして(禅師が)指導する時は、修行者に先に仏像を観るようにと、言うのでしょうか?

答16-45 《旗幡経》(Dhajagga Sutta)の中で、仏陀は「厄難に遭遇した時、よく私を思い出して下さい。その後に憶念します:世尊は確かに阿羅漢、正等正覚者、明行足、善逝、世間解、無上調御者、天人師、仏陀、世尊です、と」と言いました。

(Mameva tasmiṁ samaye anussarayyātha:Itipi so bhagavā arahaṁ sammāsambuddho vijjācarana sampanno sugato lokavidū anuttaro purisadammasārathī satthā devamanussānaṁ buddho bhagavā’ti。)

故に、仏随念の修行を始める前に、まず仏像を観じる必要があります。そうでなければ、阿羅漢などの特質が、一体誰のものか、分からないではありませんか?仏陀の時代の人々は、当然、仏陀の本当のお顔とお姿を見る事ができました。だた、今は、仏陀はすでに入滅されていて、我々は仏像を観て、仏陀をしのぶより他、方法はありません。どちらにせよ、我々は修行の始まりの段階で仏像を観ますが、仏陀の特質に専注する時、当該の仏像(のイメージ)は消えますから、何ら問題はありません。

#316-151009

問16-46 禅師。詳しくお答え頂きたいのですが、いまだ近行定や安止定に到達していない初心者は、仏随念や死随念を、どうやって修行すればよいのでしょうか?

答16-46 ここでは簡単にしか解説できません。もし、あなたが細かい修行方法を知りたいのであれば、《清浄道論》を参考にして下さい。初心者はただ想像によってしか、仏随念を修行することができません。まず、修行者は一尊の仏像を、本当の仏陀と見なして、よくそれを見ます。その後、心の中で当該の仏陀を想像します。その後に、修行者は、仏陀の特質の中の一つ、たとえば「阿羅漢」を選びます。「阿羅漢」には、五項の定義がありますが、修行者はその中の任意の一つを選ぶ事ができます。たとえば、仏陀は、無上の戒定慧を擁していたので、一切の人、天神及び梵天の礼拝を受けるに値しました(のだというような事等)。その後に、修行者は近行定を証するまで、一心にその特質に専注します。しかしながら、仏陀の特質は非常に奥深い為、初心者が仏随念を成就するのは、容易ではありません。

死随念についても、初心者は想像を通してしか、修行する事が出来ません。まず先に、修行者は、自分の未来の死体を想像し、その後に死亡心と同時に滅尽する命根を(瞑想の)対象にとり、「私は必ず死亡する」という心念をもって、それに専注して、定力を育成します。しかしながら、初心者にとっては、死随念も非常に成就しにくいです。というのも、彼は自分の命根が本当に滅尽するのを見る事ができないからです。

もう一つ、別の、比較的簡単な方法は、先に安般念または遍禅を修行して、第四禅まで到達しておくか、又は四界分別観を修行して近行定に到達しておき、その後に当該の定力を基礎に、仏随念又は死随念を修行するというものです。

#317-151009

問16-47 仏随念だけを修行して、涅槃を証悟する事はできますか?

答16-47 できません。しかしながら、仏随念の近行定を基礎にして、色聚が見れるほどに四界分別観を修行し、その後に究竟色法、究竟名法を分析し、名色法の因を識別し、名色法及びそれらの因を無常・苦・無我として観照します。このように観禅(vipassanā)を修行すれば、あなたは涅槃を証悟する事ができます。

#318-151009

問16-48 相当のレベルの禅定があって初めて、四護衛禅の修行ができるのでしょうか?

答16-48 そうあればベターですが、必要条件ではありません。

#319-151009

問16-49 未だジャーナを証していない初心者は、どのように慈心禅を修行しますか?

答16-49 まず先に、修行者は自分が敬愛する、同性である所の人の笑顔を想像します。その後に以下の四つの方式でその人に慈愛を届けます:「この善き人に、敵がありませんように;この善き人に内心の苦痛がありませんように;この善き人に身体上の痛苦がありませんように;この善き人が楽しく、自分を大切に生きますように」このように慈愛を四回から五回拡散し、修行者は自分の最も好きな方法を選んで、その人の笑顔に専注しながら、その人に慈愛を不断に届けるようにします。修行者は、このようにして、長期的に何週間も、何か月も、又は何年も、ジャーナを証するまで修行します。その後に、修行者は、私が先ほど説明した方法で、修行しなければなりません。しかし、慈心禅を証するのは容易な事ではないのです。というのも、通常、修行者が選らんだ対象のイメージは安定せず、しばしば消失してしまうからです。

#320-151009

問16-50 ある人が、捨心第四禅のない人が、慈心観を修行すると、愛染を生じると言います。こういう意見は正しいですか?

答16-50 これは間違った意見です。もし、修行者が正しい方法で慈心観を修行者するならば、愛染は発生しません。そして、捨心第四禅を証したいのであれば、先に慈心、悲心及び喜心の第三禅を証しておかなければなりません。

#321-151009

問16-51慈心観の修行は、菩薩道を修行しようという発心を、引き起こしますか?

答16-51 これは修行者の願望によって決定されます。もし、修行者が菩薩道を修行したいのであれば、それはよい事です。もし聖弟子になりたいのであれば、聖弟子になる事もできます。ちょうど、須菩提尊者、優陀羅、サマワッティ皇后や古入達拉のように。

#322-151009

問16-52 慈心禅を証した修行者は、出定後、真実の慈愛心がありますか?

答16-52 もし、彼が慈愛心を保持するならば、近行定(レベル)の慈愛になります。しかしながら、彼がどんな対象にも不如理作意するならば、慈愛を失ってしまいます。

#323-151009

問16-53 私はある種の修行者が座禅中に、彼に功徳を回向してくれるよう頼みに来る、というような事があると聞きました。これは幻覚ですか?慈心観を修して、彼らに回向するのは効果がありますか?もし有効ならば、彼らは過去世において、我々と関係があったのでしょうか?

答16-53 幻想かも知れませんし、真実かも知れません。慈心観を修行するのは回向の為ではありません。もしあなたが彼らに回向したいのであれば、あなたは何らかの善業、たとえば、布施、持戒、禅修行等を実践し、その後に「私はこの功徳をあなた方と共に享受します」又は「私はこの功徳を一切の衆生と共に平等に、享受します」と言います。生死輪廻の中で、どの衆生も我々の親戚でなかったものはいません。

#324-151009

問16-54 慈心観を修行している時、天神、地獄の衆生が見えます。この能力は天眼通とは違いますか?

答16-54 天眼通は、慈心観よりも更に強くて力があります。両者共に光明を生じる事が可能ですが、しかし、比較してみると、天眼通の光明は慈心禅の光明より更に強いです。慈心観を修行する人は、部分的に天神、地獄等の衆生を見るだけですが、天眼通を備えている人は、徹底的にそれらの衆生が見え、かつ、彼らがそこに生まれた業をはっきりと知る事もできます。

#325-151009

問16-55 身至念を修行する時、全部を修行し終わらないと証悟する事はできないのでしょうか?(たとえば安般念を修した後、四界分別観を修し、その後に四威儀などを修行する)このような配列は、仏陀が決めたのでしょうか?もし必ず全部を終わらせなければならないのであれば、現代の社会で、墓場観はどのように修するのでしょうか?

答16-55 涅槃を証悟する為には、必ず身至念業処の中のすべての法門を修行し終わらなければならない、という事はありません。仏陀がこのような配列で説明したのは、教え方を解説する為であって、実際の修行で必ずこの通りに固定的な順序で行えと言った訳ではありません。あなたが墓場観を修行する時、9種類の墓場観全部を修行する必要はありません。ただ、あなたが以前に見た事のある何か一種類の死体を不浄としてみなし、これによって、定力を育成すればよいのです。あなたがこれまで一度も人の死体を見たことがないのならば、動物の死体を観照してもよいですし、新聞や雑誌に載っている写真の死体を観照するのでも構いません。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。