Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#326~#332>問答(16)問16-56~16-62<その他の止禅編><八聖道分編>7編。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

<その他の止禅>

#326-151010

問16-56 白遍と光明遍は何が同じで、何が異なりますか?この両者は、何禅まで到達できますか?

答16-56 それらは対象に取るものが異なります。白遍は白色を対象に取り、光明遍は日光、月光、蝋燭の火、又はその他の光を対象にしています。しかしながら、あなたがそれらの第四禅を証する時、それらの差は殆どなくなります。というのも、白遍の対象は、その時白い光に変化するからです。この内どの遍禅を修行しても、第四禅に到達する事ができます。

#327-151010

問16-57 初心者が32分身を止禅の業処として修行する時、智慧の光の支援がないという事は、32分身を修行すると言っても、それはただ仮想で観ているとか、概念で観ているとか、そういうレベルになるのでしょうか?この修行方法を詳しく説明して下さい。よろしくお願いいたします。

答16-57 そうです。彼はただ想像によってしか修行できません。勿論、想像で修行しても、直接32分身を照見しても、それらは概念法に過ぎません。もし、あなたが初心者向けの詳細な修行方法を知りたいのであれば、《清浄道論》を読んで下さい。

#328-151010

問16-58 定力と正念は、必ず、ゆっくりとした動作によって出現するのでしょうか?速度の速い動作では、出現しないのでしょうか?

答16-58 これは人によります。ある種の修行者は、ゆっくりとした動作でしか、正定と正念を保持することができません。しかしながら、ある種の修行者は、普通の、又は速度の速い動作でも、正定と正念を保持する事ができます。

#329-151010

問16-59 念珠を使って、呪を念じる事を通して、近行定又はジャーナに到達する事はできますか?

答16-59 上座部仏教の中では、呪を念じる修行方法はありません。ある一人の緬甸(ミャンマー)の大長老の説では、呪文はバラモン教キリスト教及びイスラム教から来ているそうです。上座部仏教の中では、念珠を用いる修行の法門もありません。故に、我々は念珠を使って呪をとなえる事を通して、近行定またはジャーナに到達する事ができるかどうか、何とも言えません。

#330-151010

問16-60 座禅中に生起する妄想は、業の一種ですか?もしそうであるならば、座禅は、善業をなす、という事だけではなくて、悪業もなす事になりませんか?

答16-60 これはどのような考え、妄想が浮かんでいるかによります。もしあなたが如理作意で考えているのならば、たとえば、あなたは明日、僧侶に布施をしようとか、であればそれは善業です。しかし、あなたが不如理作意で考えている時、たとえば、あなたが欲楽の享受を考えている時は、悪(業)になります。

#331-151010

問16-61 我々をして、ジャーナを証し得ないようにしている強烈な五蓋は、業障ですか、それとも魔障ですか?

答16-61 業障とは悪業の事です。五蓋は、あなたの心の中に生じた不善法に過ぎず、

魔障ではありません。

#332-151010

問16-62 四禅八定を成就した後、来世において、無想天(asaññāsattā deva 無想有情天)に生まれ変わったりしますか?

答16-62 これはあなたの願望によって決定されます。もしあなたが無想天に生まれ変わりたいのであれば、第四禅から出定後、あなたは必ず一つの特殊な方法、「離名行」(nāmavirāga bhāvanā)、その意味はすなわち、名法を厭離する修行方法の事ですが――それを修行しなければなりません。この法を修行する人は、第四禅から出定後、‘dhī nāma、dhī nāma‘――「名法は厭うべきもの、名法厭うべきもの」と作意します。彼らはなぜそのように考えるのでしょうか?彼らは他人がどのように死体に対応しても、死体は苦も楽も感じないという事を観察し(て知っ)たからです。人が苦痛や快楽を感じるのは、名法があるからです;もし名法がなければ、苦楽を感じる事がありません。彼らは名法から離脱したいと考え、故に「離名行」を修行します。修行が成功して、もし臨終の時にこの業が現前すると、来世において、彼らは無想天に生まれます。

もしあなたがただ四禅八定を修行するだけで、この種の「離名行」を修習しないならば、あなたは無想天に生まれ変わる事はなく、故に、怖がる必要はありません。

仏陀の教えによれば、あなたが四禅八定を成就したならば、自己の願望に沿って来世どこの界に生まれたいか、選ぶ事ができます。このような知識は、外道にはないものです。スッドーダナ王(King Suddhodana)の国師阿私陀隠士(Asitaisi)を例にとると、彼は四禅八定を成就したので、来世は必ず非想非非想天に生まれるであろうと思いました。というのも、彼の考えでは、最高のジャーナだけが果報を生じさせる事ができ、他に選択の余地がないと考えていたからです。これが、我々の菩薩悉達多太子を見た時に、悲しくて涙を流した理由です。彼は自分が間もなく死に、死後、非想非非想天に生まれ変わる、すなわち、悉達多太子が仏陀になるのを見届けられないと思い、非常に悲しく思ったのです。

<八聖道分>

#343-151010

問16-63 八聖道は前行道だそうですが、合行道ではないのですか?前行道とは何ですか?なぜ、八聖道は合行道ではないのですか?八聖道は出世間法を含んでいるのではありませんか?

答16-63 前行道とは、聖道がまだ生じていない前の道であり、すなわち、道智の前に生じる観智の事です。八聖道は、世間及び出世間の両方を含んでいますが、しかし、私はあなたが私の説明を誤解したのではないか、と思います。というのも、私

が言ったのは「四念処は前行道」で、「八聖道は前行道」とは言っていないからです。

《大念処経》で、四念処を道と表現した時、正見等のその他の7聖道もまた含まれていますが、しかし、ここで言う八聖道は、世間八聖道の事を言っているのです。これは容易に理解できると思います。というのも、出世間の八聖道が縁に取る対象は涅槃であって、色、受、心及び各種の法を対象に縁に取る事はできないからです。それに、一個の道心は、ただ一回のみ出現しますから、7日間とか、7年間とか継続して出現する事はできません。しかし、仏陀はこの経の中で、もし比丘が四念処の修行に7日から7年精進したならば、阿羅漢道果または阿那含道果を証悟出来ると言っています。この二つの点から、我々は、四念処は、前行道で有る事を容易に理解する事ができます。

#344-151010

問16-64 念根、念覚支と正念の三者は、どのように違いますか?八聖道の正念は、四念処の事だと聞いた事があります。間違っていますか?

答16-64 三者はみな同じです。異なる名称を持つのは、仏陀が異なる角度で念心所を解説したからです。

八聖道には、世間及び出世間の区別があります。四念処は世間の正念に属します。

#345-151010

問16-65 慧根は似相を知見する事ができます。択法覚支もまた似相を知見する事ができます。この両者の違いは何ですか?

答16-65 慧根と択法覚支は同じものです。皆正見で、慧心所です。あなたが、それらが似相を対象として縁に取るだけだと誤解しないように、私は色々な、異なる種類の正見について説明します。正見は、ジャーナ正見、観禅(vipassanā)正見、道正見と果正見に分けられます。

通常、ジャーナ正見が縁に取る対象は、概念的な似相です。しかし、ある種のジャーナ正見は、究竟法を対象として縁に取る事が出来ます。たとえば識無辺処禅の正見は、すなわち、空無辺処禅心を縁として対象をとっていて、非想非非想処禅の正見は、無所有処禅心を縁として対象を取っています。ただ、ジャーナ正見は、非常に低レベルの正見なのです。

観禅(vipassanā)正見は以下のものを含みます:

  1. 苦諦を観照する正見。すなわち、究竟名色法を観ずる正見。
  2. 集諦を観照する正見。すなわち、諸因と果の間の縁起の関係を観照する正見。この正見は、自業正見ともいいますが、すなわち、自分の業を自分の財産だとみなすことの出来る智慧の事です。
  3. 世間的道正見。これはすなわち、諸諸の行法、すなわち、名色法及びその因を無常・苦・無我とみなす正見。この正見は、未来において阿羅漢道を証悟した時、一切の煩悩が滅尽するのを観照しますし、また、未来において般涅槃を証入する時、一切の五蘊が滅尽するのを観照します。故に、この種の正見は、世間滅諦を観照する観禅正見を含み事になります。
  4. 世間的道諦を観照する正見。すなわち、世間正見、正思惟、正精進、正念、正定を含む、心を観ずることのできる正見。果正見とは、涅槃を縁に取って対象とする果心に相応する慧心所の事です。

 出世間道正見とは、永遠の滅(accanta nirodha)を縁に取ります。すなわち、涅槃を対象にしています。

果正見とは、涅槃を対象として取った果心に相応する、慧心所の事です。

 (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。