Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#353~#366問答(16)問16-73-16-86<証悟涅槃編>14編。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#353-151011

問16-73 《須師摩経》(Susima Sutta)の中で、「我等已知生死已尽、梵行已立・・・」及び「先得法住智、後得涅槃智」と書かれている事柄は、3月21日に禅師が開示した、修行者が未来のどの世で無学果を証悟出来るかを観察する事は、当該の経に書かれている「我等已に知る(いつの世に)生死の已に尽きん、かつ、すでに(いつの世に無学果を証悟するかという)法住智も得、及び(未来のいつの世に必ず無学果を証悟するという)涅槃智も後に得ん、と同じでしょうか?

答16-73 私はあなたが《須師摩経》を誤解し、また私の話をも、誤解したのだと思います。《須師摩経》の中で書かれている「我知生已滅尽、梵行已立、応作的已作、不需再努力」は、阿羅漢たちが、自分がすでに阿羅漢果を証悟した事を宣言する語りであり、ただ縁起を修行しただけの人に、なぜ、このような事が言えるでしょうか?

スシマ(須師摩)は、多くの阿羅漢が仏陀に対して、自分が阿羅漢果を証悟した時の様子を、報告しているという事を聞きました。故に、スシマはそれらの阿羅漢たちに、八定と五神通を証悟したのか、と尋ねました。阿羅漢たちは答えました「いえ」「もし、八定と五神通を証悟していないのであれば、あなた方は、どのようにして阿羅漢果を証悟したのですか?」阿羅漢たちは答えました:「Paññāvimuttā kho mayaṁ āvuso Susima」――「友よ、スシマ。我々は慧解脱者なのです」スシマは彼らの回答の意味が理解できなかったので、仏陀に会いに行って同じ質問をしました。仏陀は言いました:「Pubbe khoSusima dhammaṭṭhitiñāṇan pacchā nibāne ñāṇaṁ。」――「先に法住智、その後に涅槃を対象とする道智」と。

これはどういう意味でしょうか?道智は、決して八定と五神通の結果ではありません。それは、観智の結果なのです。故に、道智は、観智の後にのみ続いて生起する事ができ、八定と五神通の後に続いて生起するものではありません。《須師摩経》の中では、すべての観智は法住智に分類されています。法住智の「法」とは、諸々の行法とその無常・苦・無我の三相の事です;「住」の意味は、「立脚して」;「智」は智慧の事です。故に法住智は、諸々の行法の無常・苦・無我の三相に立脚した観智、という事になります。

3354-151011

問16-74 禅師の開示に基づくと、観禅(vipassanā)に到達するには、必ず強くて力のある定力を具備していなくてはなりません。しかし、須師摩経の中の阿羅漢達は、止禅(の能力)をもっていないようです。禅師、慧解脱とはどういう事でしょうか?

答16-74 慧解脱とは、いかなるジャーナも証しておらず、ただ純観禅のみを修行して解脱を証したものを言いますが、しかし、これは決して強くて力のある定力がなくても、慧解脱を証悟する事が出来ると言っている訳ではありません。慧解脱を証したいと思う修行者は、必ず四界分別観を修行して、自分の全身の地・水・火・風四大の相、すなわち、硬さ、粗さ、重さ、滑らかさ、軽さ、流動性、粘着性、熱さ、冷たさ、支持性と推進性を照見しなければなりません。彼は、自己の全身が透明でかつ、非常に強い光を発散しているのを観る必要があります。彼が、その透明体の四大を観じ続けるか、またはその中の空間を照見する時、非常に多くの極めて迅速に生滅する色聚、すなわち、小粒子を見る事ができます。この時、彼は近行定の刹那定と同等の力量を獲得していると言えます。この強くて力のある刹那定によって、彼は更に進んで全身の六門及び42の分身の各種の色聚の中の究竟色法を分析します。その後に、彼は心路過程に基づいて究竟名法を分析しなければなりません。内部と外部の名色法を分析した後、彼は更に進んでその因縁を観照し、その後にもう一度、名色法及びその因の無常・苦・無我の三相を、阿羅漢道果を証悟するまで、観照しなければなりません。

慧解脱を証悟した純観行者と二種解脱を証悟した止行者の間の主要な差異は、前者が止禅の修行をしないままジャーナを証したというもので、しかし、観禅(vipassanā)においては、基本的に両者の修行方法は同じなのです。

#355-151011

問16-75 行捨智を修行するに至り、かつ初禅以上を有する修行者は皆、今世で涅槃を証悟する事ができますか?初果を証悟した人は、死後、大多数の人は色界に生まれ変わりますか?

答16-75 はい。彼らの多くは、今世で涅槃を証悟する事が出来ます。もし出来ないとしても、大多数の人は、次の世で涅槃を証悟できます。

聖者が死後、色界天に生まれ変わるかどうかについては、彼らがどれだけの聖道果を証悟したかによるか、または、ジャーナを証したかどうか、及びどの界に生まれたいかと言う願望によって決まります。阿羅漢たちについては、来世はありませんから、当然、色界天に生まれ変わる事はありません。阿那含は死後必ず、色界天又は無色界天に生まれ変わります。彼らの多くは、浄居天に生まれ変わりますが、自己の願望に従って、もう少し低いレベルの色界天に生まれ変わる事もできます。たとえば、世界の主梵天神(Sahampati Brahmā)は、初禅天に生まれ変わった阿那含でした。斯陀含と須陀洹については、もし、彼らが、かつてジャーナを証した事があり、かつ臨終の時に自分の好きなジャーナに入る事ができるならば、彼らは当該のジャーナに相応する色界天に生まれ変わる事ができます。如何なるジャーナも証した事のない斯陀含と須陀洹は、欲界に生まれて、天神又は人になるか、です。

#356-151011

問16-76 禅師の著書《如実知見》の中で、禅師は涅槃へ向かう門は三つあると言いました。12月13日の開示で、禅師は内外の32分身の不浄観の観照は、涅槃へ向かう道だと言いました。もし修行者がすでに諸々の行法の生滅と、それらを無我として観照する事に成功している時、彼は身体の不浄を観じないでも、涅槃を証悟する事はできますか?もし出来るのならば、もう一つ別の法門に属する色遍を観照しても、涅槃へと向かう事ができますか?

答16-76 はい、可能です。涅槃へ向かう三つの門とは、身体部分を基礎にした止禅の業処を言います。あなたは、32分身の不浄に専注する事を通して、初禅を証悟する事ができますし、又はそれらのうちの任意の一つの色彩に専注する事によって色遍の第四禅を証する事ができまし、それらの四大に専注する事によって、近行定を証悟する事ができます。これらのジャーナと近行定は、明るい智慧の光を生じさせる事ができます。当該の光の支援の下、あなたは観禅(vipassanā)を修行し、究竟色名法、それらの因、及び究竟名色法とそれらの無常・苦・無我の三相を観照する事によって、涅槃を証悟する事ができます。あなたは異なる種類の止禅を修行する事ができますが、しかし、観禅(vipassanā)は永遠に、一種類しかありません。

#357-151011

問16-77 禅の修行を通してしか、涅槃の証悟、解脱の獲得をする事はできないのでしょうか?

答16-77 人は四種類に分ける事ができます。すなわち、敏知者(ugghāṭitaññu)、広演知者(vipañcittaññu)、所引導者(neyya)、文句為最者(padaparama)です。敏知者はただ一首の短い偈を聞くだけで涅槃を証悟する事ができます。シャーリプトラ尊者とモッガラーナ尊者は、こういうタイプの人です。広演知者は、比較的長い法話を聞いただけで、涅槃を証悟する事ができます。たとえばコンニャンダ尊者は《転法輪経》を聞いた後に、即須陀洹になりました。現代の社会では、この二種類の人はもう存在しません。所引導者は、順を追って段階的に禅の修行を実践する事によってしか、涅槃を証悟する事ができません。大多数の禅修行者は、この種に属する人です。文句為最者は、どのように修行に精進しても、今世では、ジャーナ又は道果を証悟する事ができない人です。もしあなたがこのようなタイプの人であっても、あなたは修行者に精進して、来世に涅槃を証悟できるよう、波羅蜜を積まなければなりません。

#358-151011

問16-78 修行者は、どのような煩悩を断じて初めて、初果を証悟する事ができますか?初果に証入する時、先生の印可が必要ですか、それとも自分で知る事が出来ますか?

答16-78 ある種の経に基づけば、修行者は身見、疑、そして儀式が心を浄化できると信じる戒禁取見を断じる必要があるという事です。もう一つ別の経では、五種類の煩悩、すなわち、先ほど説明した三種類と嫉妬と吝嗇とを断ずる必要があると言っています。もし、彼が教えに精通しているならば、彼は自分で須陀洹になった事を知る事ができます。しかし、彼が余り教えに精通していないならば、自分で知る事が出来ないかも知れません。たとえば、仏陀の親戚の大名居士(Mahānāma)のように、彼は自分がどんな煩悩を滅し去ったのか、知らないでいました。

#359-151011

問16-79 「私」は概念です。「願望」は概念です。ジャーナ、天神、梵天神、悪道及びその他のすべての世間と出世間の事柄は全部概念です。生死輪廻の中では、概念が概念を追い求めているだけです。涅槃も概念ですか?もし違うのであれば、「私」と言う概念は、概念に属さない涅槃をどのようにして証悟するのでしょうか?

「我」という概念は、どのようにして、般涅槃の時に非概念法を証悟する事ができるのでしょうか?概念の視点から言うと、諸仏と阿羅漢たちは涅槃の中で会っていて、かつ、彼らの間では、生死輪廻の期間における関係を知っているという事はありますか?彼らは涅槃で何をしているのでしょうか?

答16-79 あなたは概念と究竟法の区別をつけて下さい。人類、天神及び梵天神はすべて概念です。というのも、究竟の視点から見ると、彼らは究竟名色法に過ぎないからです。

究竟法には四つあります。すなわち、色法、心、心所及び涅槃です。願望及びジャーナはすべて心と心所に過ぎず、概念ではありません。世間法は究竟法と概念法を含んでいますが、四道、四果と涅槃という九種類の出世間法はすべて究竟法です。四道と四果は心と心所からできています。涅槃を対象に取るのはそれらであり、人という概念法ではありません。

般涅槃の時、諸仏と阿羅漢たちの五蘊は、すでに完全に滅尽します。故に、彼らは涅槃の中で会う事はできません。

#360-151011

問16-80 ある種の経では、仏陀には、般涅槃の後でも一種の心が存在していると言います。それはどのような心ですか?

答16-80 上座部のパーリ聖典と註釈には、そのような記載はありません。しかし、非常にはっきりしている事は、般涅槃の後、一切の心を含む五蘊は、完全に滅尽する、と書かれている事です。

#361-151011

問16-81 涅槃とは、常、楽、我であると言いますが、これは正しいですか?

答16-81 正しくありません。涅槃は恒常で、かつ寂楽ですが、しかし、無我です

《法句経》の中で、仏陀は言いました:「諸行無常;無行是苦ママ諸法無我」(Sabbe saṅkhārā anicca;sabbe saṅkhārā dukkha;sabbe dhammā anatta )諸行とは一切の色法、心及び心所を含みます。そして、諸法は、諸行を含む以外に、涅槃と概念法を含みます。あなたは以下の事に、特に注意しなければなりません。仏陀は諸行無我と言ったのではなくて、諸法無我と言ったのです。諸行は無常・苦・無我ですが、涅槃は常、楽、無我なのです。

#362-151011

問16-82 《長部・梵網経》によると、禅の修行者は、ある種の禅の修行の経験をする過程で、62種類の邪見の内の一つが生じるそうです。禅師にお尋ねします。もし順を追って段階的に止禅と16観智を修行するならば、62の邪見の網から遠く離れていられますか?または良き師に恵まれて初めて、逃れられるとか?62の邪見の中で、禅を修行する修行者が陥りやすいのは、どれですか?

答16-82 もし彼が本当に16観智のすべてを証したのであれば、彼は如何なる邪見にも、二度と堕ちる事はありません。

#363-151011

問16-83 宗教にはそれぞれ最終目的があります。たとえば、ヒンズー教は梵我一如。キリスト教は天国の永遠。これらは皆、常見です。我々仏教徒の最終目標は涅槃ですが、これは常見でしょうか?または断見?又は非常非断見?もし、人がその意味をよく理解できないのならば、なぜそれを修行の最終目的とするのでしょうか?

答16-83 仏教は常見でも、断見でもありません。中道の正見です。常見と断見は、両者とも、自我の存在があると考えています。これは仏教徒の受け入れがたい所です。仏陀は一貫して、31界全部はただ無常・苦・無我の諸行法があるだけだと教え、また因があれば果があり、因がなければ果はないという法則を教えました。あなたは、涅槃(Nibbāna)、煩悩般涅槃47(KilesaPariṇibbāna)及び五蘊般涅槃(Khandha Pariṇibbāna)の三種類について、区別をつける必要があります。四道智及び四果智は、又の名を「無為涅槃」(Asaṅkhata Nibbāna)という涅槃を対象としています。修行者が無為涅槃を縁の対象とする阿羅漢道智を証悟する時、彼の一切の煩悩は完全に滅尽します。この煩悩の般涅槃の、又の名を有余涅槃(Saupadisesa Nibbāna)と言います。というのも、阿羅漢はすでに煩悩を根絶やししてしまいましたが、

しかし、まだ五蘊が残っているからです。一切の煩悩を滅尽して、阿羅漢が般涅槃に証入する時、一切の五蘊は、完全に滅尽します。この五蘊般涅槃は、又の名を無余涅槃(Anupadisesa Nibbāna)と言います。阿羅漢道智とその対象である無為涅槃は因で、煩悩般涅槃及び五蘊般涅槃の二つは果になります。五蘊般涅槃は因果法則によって生じますが、これは阿羅漢道智及びその対象の無為涅槃という、これらの因が無くても完全に滅尽できると考える断見とは異なります。

#364-151011

問16-84 初禅から直接道果を証悟する方法を教えてください。

答16-84 できません。

#365-151011

問16-85 四無色界の衆生は、どうして須陀洹道を証悟する事ができないのですか?

答16-85 仏陀の声聞弟子は、二つの条件を備えた時にのみ須陀洹道を証悟する事ができます。すなわち、他人の説法を聞く事(paratoghosa他人の音)と如理作意です。如理作意の意味は、諸行を無常・苦・無我・不浄として作意する事です。他人の説法を聞く事という条件については、たとえ智慧が非常に鋭敏であったシャーリプトラ尊者でさえも、阿説示尊者の称える一首の短い偈を聞いた後でしか、須陀洹道を証悟する事が出来ませんでした。四無色界の有情は耳を持たないので、他人の説法を聞けません。故に、彼らは須陀洹道を証悟する事ができないのです。

#366-151011

問16-86 禅師は、先に全身の四界の12の特徴を識別して近行定に到達し、その後に直接観禅(vipassanā)の修行を通して7清浄の内の最後の5清浄を円満した後でしか、涅槃を証悟する事はできない、と言いました。現代には、もう一つの修行方法があります。仏陀の教えと言われているもので、受を観ずる所から始め、同時に全身の受を観る、すなわち、直接受の無常を内観するもので、<今ここ>で内観すればよいと強調し、究竟名色法を識別する必要はないと言っています。この方法で、ジャーナと涅槃を獲得する事ができますか?《大念処経》の教える修習方法に合致しますか?禅師、ご教示願います。

答16-86 皆さんは今まさに《大念処経》の説明を聞いていました。《大念処経》の修習方法に合致するかどうか、自分で判断して下さい。

《六処相応・一切品・不通解経》の中で、仏陀はこう言っています」‘Sabbaṁ bhikkheve anabhijanaṁ aparijānaṁ avirājayaṁ appajahaṁ abhabbo dukkhakkhayāya・・・(P)・・・Sabbañca kho bhikkhave abhijānaṁ parijānaṁ virājayaṁ pajahaṁ bhabbo dhkkakkhayāya ’(Saḷāyatana Saṁyutta、Sabbavagga、Aparijānana Sutt) ――「比丘達よ。一切を、知解しない、通解しない、離欲しない、捨棄しない者は、苦を滅する事はできない・・・比丘達よ。一切を、知解する、通解する、離欲する、捨棄する者は、善く苦を滅する事ができる。」と。

当該の経の註釈では、更に詳しく、その内容とは「三遍知」である、と言っています。:Iti immasmiṁ sutte  tissopi pariññā kathitā honti。‘Abhijānan’ti hi vacanena ñātapariññā kathitā、‘parijāam’ti vacanena、tīraṇapariññā、‘virājayaṁ pajahan’ti dvīhi pahānapariññā ti.――「この経の中で述べられているのは三遍知の事である。『知解』とは『所知遍知』(ñāta pariññā)である。 『通解』とは『審察遍知』(tīraṇapariññā、又は度遍知とも)の事である。『離欲』と『捨棄』の二つは『断遍知』(pahānapariññā)の事である。」

「一切」という単語に関しては、《大疏鈔》(Mahāṭikā)では、こう言っています。Ta ṇhi anāvasesato pariññeyyaṁ ekaṁsati virājitabbam。――「先に、徹底的に、かつ、一切を漏らす事無く、観禅(vipassanā)の対象である五取蘊を識別しなければならない」と。五取蘊とは何ですか?すなわち、過去、現在、未来、内部、外部、粗い、細かい、劣った、優れた、遠い及び近い、の11種類の五取蘊の事です。このように、ただただ三遍知によって、徹底的に五取蘊に属する名色法を理解した後でしか、我々は名色法に対する貪愛を取り除いて、苦を滅する事は出来ないのです。

《長部・大因縁経》(Mahānidāna Sutta)では、仏陀はこう言っています:‘Gambhīro cāyaṁ Ānanda paṭiccasamuppādo gambhīrāvabhāso ca。 Etassacānanda dhammassa ananubodhā appaṭivedhā evamayaṁ pajā tantākulalajātā gulāgaṇṭhikajāta appaṭivedhā evamayaṁ pajā tantākullakajātā gulāgaṇṭhikajāta muñjapabbajabhūta apāyaṁ duggati、 vinipātaṁ saṁsāraṁ nātivattati。’――「アーナンダ、縁起とは非常に奥深く、奥深さを顕しているものです。随覚智と通達智でもって徹底的に縁起を知見できず、また道果智を証悟できない為に、有情は生死輪廻の中に捉えられてしまっています。まるで、結び目のある糸のように、織巣鳥の巣のように。そして、彼らは悪趣輪廻から解脱する事ができないでいます」

ここで言う随覚智と通達智とは、すなわち、三遍知の事です。この経の教えに基づいて、論師たちは言います:Ñāṇāsinā samādhipavarasilāyam sunisitena bhavacakkamapadāletvā asanivicakkamiva niccanimmathanaṃ Saṁsārabhayamatīto、na koci supinantarepyatthi。(Vism XVII、344)――「最も優れた定石で磨いた智剣を使って、不断に壊滅する有輪(縁起する輪の事)を切り倒す以外、輪廻の恐怖から解脱できる人は、夢の中でさえも、いない」。

この経論の教えに基づけば:

  1. 修行者は、先に、個別に、五取蘊を組成するすべての名色法を識別しなければなりません。個別にすべての色法を識別する智慧を「色分別智」(rūpa pariccheda ñāṇa)と言います;個別にすべての名法を識別する智慧を「名分別智」(nāma pariccheda ñāṇa)と言います;名法と色法を二つの種類の組み合わせとして識別する智慧を「名色分別智」(nāmarūpa pariccheda ñāṇa)と言います。この段階において「人は無い、有情は無い、無我である」という事を理解する智慧を「名色差別智」(nāmarūpa vavaṭṭhāna ñāṇa)と言います。

すべての名色法を識別する時、もし修行者がいまだジャーナを証していないのであれば、ジャーナと関係のある名色法(の識別)を省略しても構いません;もしすでにジャーナを証しているのであれば、それらを観照する必要があります。

2、正確に、如実に、名色法の因を知見しなければなりません。この智慧は「縁摂受智」(paccaya pariggaha ñāṇa)と言います。

名色分別智と縁摂受智は、観禅(vipassanā)の対象である諸行法を、はっきりと、明晰に、正確に知見できるので、この二つの智は、「所知遍知」と言われます。

3、観禅(vipassanā)の段階は、「思惟智(sammasana ñāṇa)」から始まります。修行者は徹底的に、一切の色法、名法及びその因の無常・苦・無我の三相を見なければなりません。

諸々の観智の中で、「思惟智」と「生滅随観智」の働きは、一切の名色法及び諸々の因の無常・苦・無我の三相を省察し、識別する事です。故に、この二つの智は、「省察遍智」(tīraṇa ñāṇa)とも言います。

「生滅随観智」(bhaṅga ñāṇa)から始まる観智は、ただ一切の名色法及びその因の壊滅、及びそれらの行法の無常・苦・無我の三相を見るだけです。断滅されるべき煩悩が、この時、観智によって一時的に断じられるので、それらはまた「断遍知」(pahāna ñāṇa)とも言われます。

このように一切の名色法を観照した後でしか、修行者は聖道を証悟する事はできません。

「今この刹那」を観照するというこの言葉について、私は、詳細に解説したいと思います。我々は、この刹那に生起した自分の心を観じる事はできません。どうしてか?一個の心識刹那の中では、ただ一つの心が生起するだけですから、自分自身を対象に取る事はできません。ただし、もう一つの心を対象に取る事はできます。これはたとえば、自分の指の先で、その指自身を触れる事はできないけれども、その指で、もう一つの指を触るのであれば、触れる事が出来るのと同じです。故に、通常言われている「今ここの心を観照する」とは、実際には、今さっき過ぎ去ったばかりの心を観照するのであって、今まさに生起しつつある心を観照している訳ではありません。

経の中で「今を観照する」と書かれているのは、生滅随観智が成熟する程に修行した修行者は、非常に正確に、過去、現在と未来の三世の、名色法の生起と維持と滅の三時を照見できるようになりますから、この事を「今ここの刹那」を観照していると言います。例を上げて言いますと、ある一つの名法があなたの前世のある時に生じ、維持し、滅したとして、あなたは非常に正確にその時の一刹那の生起と、維持と滅を観じる事が出来たならば、あなたは「今ここの刹那」を観照している事になります。

これらの解説が、あなたの疑惑が解けるのに、役に立つよう願っています。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṁ me puññaṁ nibbānassa paccayo hotu)。