Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#367~384>問答(16)問16-87~16-104<観禅><禅修教授>18編。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

<観禅>

#367-151012

問16-87 四界分別観について、禅師は12の特徴を識別する事から始めるようにと強調しています。ただ、実際に修行してみると、最も顕著なのは感受です。どうして禅師は我々に受を観るように指導しないのですか?

答16-87 ただ単に受を観るだけでは、涅槃を証悟できないからです。あなたは、それと相応する名法も観照しなければなりません。多くの名法は、六門心路過程の中において生起します。もし、あなたが名法を観照するのであれば、必ず如実に、六門心路過程の中の一つ毎の心識刹那の中の、すべての名法を観照しなければなりません。あなたは、自分が心路過程の中の名法を観る事ができるかどうか、今すぐ試してみて下さい。

純観行者は、必ず四界分別観から入門しなければなりません。故に、我々は、純観行道の修行を希望する人には、先に四界分別観を修行し、色聚が見えるようになったなら、色業処を修行し、各種の究竟色法を識別するように、教えます。各種の究竟色法を徹底的に識別できるようになったら、名法は非常に鮮明に、その観智において顕現します。故に、修行者がこのような段階に到達してから後、名業処の修行と、受及び各種のそれに相応する名法を識別するように、教えます。

#368-151012

問16-88 開示の中で、禅師は痛みに注目すると定力の育成を阻害すると言いました。しかしながら、一種の修行方法があって、それは痛い時は痛みを観じ、痛みの全過程を無常・苦・無我と観照して智慧を得るというものです。この方法は、実践可能ですか?

答16-88  止禅を修行して定力を育成しようという段階では、修行者は一心に止禅の対象に専注するべきで、このようにして初めて、深くて厚い定力が育成されます。痛みは、身門心路過程の中の不善果報身識に相応する苦受であり、当該の心識刹那の中には、全部で8個の名法が同時に生滅しています。すなわち、身識と苦受以外、触、想、思、命根、作意及び一境性、です。身門心路過程の中で、身識刹那の他に、その他非常に多くの心識刹那があります。もし観じるのであれば、あなたはその中の一つ毎の心識刹那のすべての名法を観じなければなりません。苦受だけを観じるのはよくないのです。

#369-151012

問16-89  五蘊は苦です。もし、一人の喉が渇いた人が、コーラを飲むとして、それは苦ですか楽ですか?

答16-89  仏陀の教えに基づけば、それは苦です。もしあなたがそれを苦であるとみなすことができたならば、あなたはもしかして、須陀洹道果を証悟する事ができるかもしれません。仏陀の時代、一人の比丘が耳の病気になりました。耳の中には膿が溜まり、故に、すでに観禅(vipassanā)において、行捨智まで修行していたのですが、いかなる聖道、聖果を証悟する事もできませんでした。ある日、仏陀は摩羯陀田に托鉢に行くように言い、彼はそこへ托鉢に行き、一人の農夫から適量の食物を貰う事ができました。そして、彼は小さな小屋に入って食事をしようとしました。その時、彼の耳から膿が流れ出し、だいぶ苦痛が減りました。状況はこうでありましたが、彼は食事をしながら、五蘊を無常及び苦として観照し続けました。というのも、五蘊は生起するや否や即刻壊滅する上、常に生滅の危機にあるからです。このような観照を通して、彼は須陀洹道果を証悟しました。

どうして五蘊は苦であるか?もし、五蘊が常で、生起した後、ずっと保持でき、壊滅する事もないならば、我々はそれらを楽だ、と言えるでしょう。しかし、それらは生起するや否や壊滅するのですから、我々はどうやって、それを楽だと言えるのでしょうか?たとえば、あなたに子供がいるとして、生まれてすぐに死んだとしたら、あなたはそれを楽しいと言いますか?同様の道理で、コーラを飲んでいる時、あなたは、四大を観照しなければなりません。そのようにすると、あなたは、それらを構成している色聚を観る事ができ、更に進んで、究竟色法を観じる事ができます。あなたが「コーラを飲んでいる」と思っている事柄は、実際には、究竟色法が五蘊の中を流れたに過ぎません。コーラの究竟色法は無常であり、それを飲んだ人の五蘊もまた無常なのです。というのも、それらは生じるや否や、壊滅しているからです;それらは常に生滅の危機に面している為、苦なのです;それらに恒常不変の本質がない為、それらは無我なのです。もし、あなたがこのように観照する事ができるならば、もしかしたら、食事中に無常・苦・無我を観照する事を通して、須陀洹道果を証悟したあの比丘のように、聖道を証悟できるかも知れません。#370-151012

問16-90  止禅の修行が上手くいかないので、観禅(vipassanā)に変更したいと思う時、どのようにすればよいですか?

答16-90  如何なるジャーナも修行しないで、直接観禅(vipassanā)を修行する修行者は、純観行者又は乾観行者と言われます。彼らは先に四界分別観の修行をしなければなりません。四界分別観はすべての純観行者が必ず最初に修行しなければならない基本的な法門です。四界分別観を修行して、強くて安定した定力を得た後、その定力の支援の下、彼らは、色聚という名の物質の粒子を見ることができるようになります。色聚を分析して、究竟色法を透視する事ができるようになったら、彼らは色法の密集を看破する事ができます。その後、同時に、名法の依処と対象を観照しなければなりませんが、このようにして、善と不善の名法をはっきりと照見するのです。次に、続いて、名色法の因縁を観照し、その後に、名色法及びその因縁を無常・苦・無我として、観照しなければなりません。こうして、彼らの観智が熟した時、涅槃を証悟する事ができます。以上が、純観行者の修行過程の簡単な説明です。

#371-151012

問16-91  有分心とは何ですか?分別心の事ですか?

答16-91 有分心は「生命相続流」と翻訳できます。それは一種の不活発な心で、かつ、一生の内で、心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです。有分心がある為に、一期の生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がありません。毎回、何かの心路過程が生起する時、有分心は一時的にその生起を停止しますが、一旦心路過程が終了すると、有分心は再び不断に継続して生起します。たとえば、あなたが熟睡して夢を見ない時、何らの心路過程も生起していませんが、有分心だけが、継続的に非常に多く生起しているのです。もし、これらの有分心が生起しない時、あなたは死亡します。というのも、心流が停止するや否や、死亡が発生するからです。過去の学者で、有分心を「無意識」とか「下意識」とかに訳しましたが、実際には、有分心は一種の意識です。ただ、それは現在の対象を取らず、前の世の臨死速行心が取った過去の目標を対象としています。

#372-151012

問16-92 修行者が人のいない所で、一人で修行しているとして、彼は如何にして外部に向かって、又は内部と外部に向かって、身を身として観ずる事ができますか?

答16-92 強くて力のある、明るく輝く智慧の光の支援の下、彼は外部の身を観照する事ができます。たとえ、どんなに遠く離れていても。しかし、もし彼の智慧の光が非常に弱い時、彼はこのように観照する事はできません。

#373-151012

問16-93 修行者はどのようにして、外部の受を観照するのですか?

答16-93 彼は全体として、外部の受を観照します。受が誰に属するのかという事までは識別しなくて結構です。もし、あなたがどのように外部の受を観照するのかを理解したいのであれば、あなたは実際に修行して、理解するのがよいと思います。

#374-151012

問16-94 ある人が世間的な物欲、情、食、楽等に対して淡泊かつ無欲で、自然が好きで、花を植え、木を育てたりするのを好む場合でも、外部の身を観照する修行をしなければなりませんか?

答16-94 花を植え、木を育てたりするのを好むのも、一種の執着です。あなたの道智、果智が、いまだ、あなたの意門心路過程の中で生起していないならば、あなたの煩悩は潜在的にあなたの心流の中で潜伏しています。潜伏的な煩悩がある限り、悪因縁に出会った時、あなたはやはり煩悩を生起させます。大龍長老の物語のように。仏陀は《大念処経》の中の一節毎に、内部と外部の五蘊を観照するようにと教えています。註釈でも解説していますが、内部の五蘊を観照するだけでは、涅槃を証するには足りず、故に、あなたはどうしても、外部の身を観照する必要があるのです。

#375-151012

問16-95 《中部》で言われている地、水、火、風、空、識というこの6界の中の空と識は、名色法のどの部分の事を言っているのでしょうか?

答16-95 この六界については、《中部》の《大象跡喩経》(Mahāhatthipadopama Sutta)、《大教誡羅候羅経》(Mahārāhulovāda Sutta)と《界分別経》(Dhātuvibhaṅga Sutta)の中で取り上げられています。空界は、空間の事で、それは一種の非真実色法です。そして、ここで言及された「空界」は、すべての所造色も含んでいます。

識は名法に属し、7界に分ける事ができます。すなわち、眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意界及び意識界です。ここでいう「識界」は、すべての心と心所を含みます。

地界、水界、火界、風界というこの四大種色に空界を加えた、それらが代表する所の所造色は、は、すなわち、すべての究竟名法を網羅しており、識界はすべての究竟名法を網羅しています。故に、ここでいう6界は、実際には、名色であり、五蘊なのです。

<禅修教授>

#376-151012

問16-96 禅師は、外観からでは、果を証した聖者を知る事はできない、と言いました。では、我々はどのようにして、良き指導者を選べばいいのでしょうか?

答16-96 あなたは《アビダンマ蔵》のいくらかの知識を持っているべきです。その上で詳細に《清浄道論》を研究するべきです。一人の指導者が聖者であろうが、凡夫であろうが、彼が《アビダンマ蔵》と《清浄道論》に基づいて教えているのであれば、その教えは正しくて、彼は良き指導者だと言えるでしょう。ペナン仏学院は、多くの《清浄道論》を出版して、無料で配布・寄贈しているので、皆さんは、一冊貰って帰って、読むべきです。

#377-151012

問16-97 ある種の人々は、修行を終えた、と言います。どういう意味ですか?

答16-97 それは彼らの報告に過ぎません。彼らは止禅と観禅(vipassanā)を徹底的に修行できたのでしょうが、だからといって彼らが聖者であるとは限りません。ある種の修行者は真実の修行体験を報告しますが、ある種の人々は、嘘の報告をします。

#378-151012

問16-98 禅師が緬甸(ミャンマー)に戻ってしまった後、修行上、禅師の指導が必要になった時、どのように助けを求めたらいいのでしょうか?

答16-98 あなたが緬甸のパオ森林寺院に来て下さい。 

#379-151012

問16-99 もし、禅師の著書及び《清浄道論》の禅の修行法に従って、自分で修行した場合、涅槃を証悟する事はできますか?

答16-99 できます。

#380-151012

問16-100 禅師は、12月27日の質疑応答の時に、禅師の著書及び《清浄道論》の禅の修行法に従って自分で修行した場合、涅槃を証悟する事ができると言いました。なのに何故、緬甸のパオ森林寺院に来るように、と言うのですか?またどうして、こんな遠くのペナンまで来て、禅修行の指導をするのですか?今後、我々は、禅師の著書にある修行方法に従って自分で修行し、インタビューにも行かない。それでもいいですか? 

答16-100 もし人が正確に、かつ徹底的に私の著書と《清浄道論》を理解するならば、自分一人で修行できます。しかし、多くの人々は、正確にかつ徹底的にそれらを理解する事ができず、修行の際に多くの問題に直面します。そういう事で、禅法に精通している導師から学ぶのが、一番良いのです。   

#381-151012

問16-101 禅師にふさわしい資格とはどういうものですか? 

答16-101 禅師となるには、本人の修行が良好で、三蔵に精通していて、教え方が上手であるべきです。最も高級な資格は、当然仏陀の智慧となりますが、それは我々の(能力の)範囲の外です。仏陀と大弟子たちは、すでに再び存在する事はないので、あなたが考えられる最も良い禅師は、三蔵に精通した阿羅漢です。次に良いのは阿那含聖者です。三番目に良いのは斯陀含聖者です。四番目に良いのは須陀洹聖者です。もし、あなたが指導者としての聖者を見つける事が出来ない時、あなたは三蔵に精通した人、又は二、三部のニカーヤに精通した人に教えてもらうといいです。 

#382-151012

問16-102 非常に多くの外国人修行者が、ある段階まで修行した所で、禅師の厳格な検証と訓練を受けるのが嫌で、パオ禅林を離れる事が多く、それによって、彼らが教える禅法がおかしなものになっています。もっと多くの人々が正確な指導を受けられるように、禅師が慈悲をもって、厳格な訓練を受けた緬甸の禅師の何人かを、禅を教える為に、外国に派遣して頂けないでしょうか?

答16-102 私はそれらの外国の修行者に、パオに残って引き続き学習するように言いますが、しかし、彼らは残ろうとしませんし、訓練を受けなくてもよいから、早く教授を始めたい、と思っているようです。このような状況で、私に何ができるでしょうか?もしかしたら、あなたのアドバイスの通りにした方が、いいのかも知れません。

#383-151012

問16-103 禅を教えている比丘の中に、聖者がいる、との事です。しかし、彼らは戒律を尊重しません。彼らの行為は、多くの人々に禅法への懐疑さえ生みます。禅師、彼らの修行に問題があるのですか?それとも禅法に問題があるのですか?

答16-103 《増支部》(Aṅguttara Nikāya)の中で、仏陀は言っています:「私が弟子たちに制定した戒について、私の聖弟子は、たとえ命を捨てる事があっても、決して違反する事はない。」(Yaṁ mayā sāvakānaṁ sikkhāpadaṁ paññattaṁ taṁ mama sāvaka jīvitahetupi nātikkamanti。)。このように、もし彼らが真実の聖者であるならば、たとえ命を捨てる事があっても、決して故意に如何なる罪も犯すことはありません。更に、聖者は仏、法、僧及び三学に対して不動の確信を持っています。故に、もし彼らが真実の聖者であれば、戒律を守る事について、完璧な自信を持っています。というのも、戒律は、戒学の法に属しており、かつ、仏陀自ら制定したものだからです。ですから、あなたは、彼らは決して聖者ではない、と言ってもいいと思います。  

#384-151012

問16-104 観禅(vipassanā)の修行を終えた後、聖道果を証悟する為には、どのような努力をすればよいですか?

答16-104 引き続き究竟名色法を観照し、その因を無常・苦・無我と見なす事です。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṁ me puññaṁ nibbānassa paccayo hotu)。