Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

是誰庵のひとやすみ~53>誤解された無我

仏教が好きな人の中で、仏陀の説いた<無我>について、

延々と議論している人がいる。

無我を文字通り<私はいない>と理解して、私は<いるか>

<いないか>を延々と議論している(注1)。

議論はやめて、修行したら分かる事を、延々と議論して

いるから不思議でしょうがない。

先日、タイの東北にあるスカトー寺の副住職をされている

プラユキ師の本を読んでいたら<仏教は自我を虐めすぎる>

と書いてあった。

そう、無我説に囚われて、自我があってはいけないような

罪悪感に囚われている仏教徒は、多い。

しかし、無我というのは、<私はいない>という意味で

はない。

仏陀御在世の、当時のインドでは、ブラフマン=梵=神様が、

我々人間の人生をコントロールしているという考えがあって、

それをゴータマ仏陀は「いや、人間は神様が作ったものでなく、

故に、自分の人生は自分でコントロールできる」と宣言(注2)

した(それを担保するのが、<無常>である)

ブラフマンは中国では<大我>とも訳されたから、ブラフマン

人間をコントロールしている訳ではないという意味で、訳文上に

<無(大)我>という言葉が登場した、という背景を理解して

おかねばならない。

自我は、まずは確立されなければならない。

そして、その自我は、実は虚構である事を(修行を通して)見抜け

ばよい。虚構であっても、生きていくには、役にたつ(いや、ない

と困る)。

銀幕に映る映画は、実際にそこで生身の人間が動いている訳ではない、

という意味では虚構だが、映画自体は、ちょっとした暇つぶしに

もなるし、啓蒙的な映画なら、結構な知識を得られる事もある。

無我を「私はいない」などと言う間違った文脈で解釈せず、

自我をしっかり確立して、そしてその自我を、所詮は虚構で

あると看破して、融通無碍に使って生きる。

それがゴータマ仏陀の無我だと、私は思う。

(注1)仏陀は「心と身体は自分のものではない」「どんなに

頑張ってみても、心と身体の中に<私>を見つける事はでき

なかった」と言ったが、私はいない、とは言っていない。

私がいるか・いないかは、無記である。

(注2)故に、仏教では神に犠牲を捧げる祭祀はしない。

仏教は<人間主権>主義だ。