Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「四煩悩を断つ」(「断除四煩悩」翻訳)―36

10、不恨(怨恨をなくす)

三毒を浄化し、現実を受け入れるーー

心の中に怨恨、嫉妬、狂妄を持ってはならない。

我々は、自己の内部に潜伏する問題を解決しないならば、

それはいつまでたっても存在し続ける。人と人との間で、

表面的には波風が立っていないように見えても、しかし、

多くの悪い種子が八識田の中に潜伏している:

例えば、攻撃性、嫉妬、排斥、傷害と闘争である。

ただ、現在は、それらの境遇・境地に遭遇していないために、

の種子が顕現していないだけである。

仏を学ぶとは、不断に、心の内部に潜む矛盾を解決する事に

ある。世間の人々は心の中に、裏切り、妄想、反伝統、攻撃、

傷害、離反、是非、対立の心性を有している。

我々の内心の深い所には、こういう恐ろしい毒素が隠れている。

今、あなた方は仏を学ぼうとしているならば、これらの毒素を

浄化しなければならない。

修行は一滴づつーー

人はいう「仏を学ぶ人は利己的だ。ただ極楽世界へ往生する事

しか考えていない」これは大きな誤解である。仏を学ぶのは、

決して、臨終の一刹那において極楽世界に往生したいがため

ではなく、また死亡時の祈りや依存でもなく、現実の問題を

解決する為である。

現実の問題とは、薪、米、油、塩、しょうゆ、酢、お茶と

いうものではなく、心性、考え方の事をいう。

これら貪欲、怒り、痴(無知)の毒素は、長く我々の

心の内部に潜伏している。

今日、我々の問題は決して外部から来るのではなく、

自己の内心から来る。内心の深部にあるそれらの種子、

習気などの微細な問題を解決しないならば、

我々が言っている仏を学ぶという事も、ただ単に皮相の

部分に過ぎない。

仏法を清談に使うはよし、人に説法するはよし、しかし、

自分が本当の困難な境遇に遭遇した時、全人格をかけて

実践することができない。

八識田の中の、あの怒涛のような力が押し寄せてきた時、

無量劫以来の習気が前面にあふれ、大多数の人々は、

暴流に押し流されるしかない。

業力が現前する時、それをコントロールする事は難しい。

故に、修行とは、一滴一滴、積み上げるものである。

嵩増しの帳簿をつけても役に立たないし、表面を糊塗しても

誤魔化せるものではない。

心は如々にして動かずして、無生に直入することが

もっともすばらしい道場となる。

自己のこの心を掌握したならば、あなたは真の道場

見つけたのだと言える。(つづく)

        (台湾高雄文殊講堂 慧律法師著 

         翻訳文責Pañña-adhika sayalay)