我々は、縁起の還・滅の中において、真実の仏・法・僧を、
<今・ここ>において体験・証明する事が出来る、という
事を発見する・・・ただし、それは、智慧ある者のみが、
自ら体現するものである事も。
そして、この事は、常見を持つ人が言う所の三宝より、
なお真実である。というのも、常見を持つ人の言う三宝とは、
心の伴わない空念仏にしか過ぎず、何の意義もない故に。
今生とは、縁起が流転・捻転する<今・ここ>の運行であり、
来生とは、縁起が流転する所の、次の一つの運行である。
もし縁起をこのように解釈するならば、常見を持つ人よりも
もっと現実的に、生活の中に応用する事ができる。
我々の見解では、「生」をば、母親の子宮から生まれ出る
こととし、「死」をば、お棺の中に入る肉体の死とするのは、
導いた縁起の真意とは異なるものなのである。
このように、正しく縁起を理解することが、仏陀の教えた
縁起説に叶うものであり、後期になって論師たちが言い出
した縁起説は、仏陀の教えとは異なるものである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)
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