Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー29

縁起とは円満なる聖諦である~~

私は、必ずや「縁起」を話題にしない訳にはいかない。というのも、

それは<仏教の核心>であるから。

<仏教の核心>という話を持ち出すと、多くの人々は、四聖諦の

事を思い出す。ここで皆様に理解してもらいたいのは、縁起とは

円満なる、最も究極な聖諦である、という事。故に、私は縁起の

事を「摩訶聖諦」(大いなる聖諦)と呼びたいと思う。

縁起は「摩訶聖諦」で、仏教の核心で、ゆえに完全に縁起を理解

できるまで、研究し、討論し、学ぶ必要があるのである。

次に知って頂きたいのは、この、理解するのが困難な縁起という

ものは、時々刻々、一人一人の身心の中に存在しているのに、

我々がそれについて、無知であると言う事。

このことは、我々自身の過誤であり、「法」の過誤ではない。

というのも、我々は身心に注意を払わないために、縁起が時々刻々、

我々の身心に存在しているという事を、知らないでいるのである。

次に私は、縁起がいかにして、常に我々の身心に存在しているかを

説明したいと思う。

縁起を理解する人は自分(独りで)で修行する事ができるし、修行

によって、自己の苦を止滅させることができる。また、我々は

それ(縁起の修行)については、一人一人が尽力しなければならない

責任があるものとし、縁起を理解し、かつ、他者が縁起を理解する

ための支援をする必要がある、と考える。

これは仏陀の心願であり、もし我々がこの事を実践する事ができた

ならば、仏陀が縁起を悟るために払ったあの辛苦が、無駄に

ならない、というものである。

四聖諦と同じように、もし理解する人がいないならば、仏陀の悟った

「法」は、徒労で、功のないままに終わり、何の役にも立たないもの

になってしまう。

実際は、縁起は、四聖諦よりなお重要で、それは最も円満で、最も

究極なる聖諦であると、言える。

ここでの結論は:我々は相互に助け合いながら、縁起を理解し、

一人一人の仏教徒の中に、宣揚するべきである。

これが、私がなぜ「摩訶聖諦」を研究しようと呼びかけること

になったのか、という主要な理由である。

縁起を理解するために、以下に、いくつかの問題を列挙して、

説明を加えたいと思う。

縁起とは何か?

なぜ縁起を理解する必要があるのか?

縁起を知ることによって、どういう利益があるのか?

どのような方法で苦を滅するのか?

(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)