当時、比丘たちは、ティッサ比丘に、邪見を放棄するように
勧めたが、ティッサ比丘は邪見に固執し、自己の主張を
墨守したため、比丘たちは、仕方なく仏陀に訴えた。
仏陀は、テッィサ比丘を呼んで、彼に訊ねた「あなたは
本当にこういう考え方を持っているのですか?」
ティッサ比丘「ほかならぬ<識>が輪廻の中で流転して
いるのです」
仏陀「では、あなたの言う識とは何ですか?」
比丘「尊敬する仏陀、それは話せ、感じ取る事ができ、
一切の善悪の業を受け取る主体の事で、これが識です」。
これは非常に厳重な邪見である:識自身によって、
我々は言葉が話せるようになり、感覚を感じれるように
なり、後の日の一切の果報を受け取る、とは。
普通の、一般の人々は、これがなぜ邪見なのか、
判断することができない。というのも、これらの人々は、
ティッサ比丘と同じように、識とは恒常的に存在している
のだと、思っているから。
<恒常>であると思い続けて習慣化し、その結果、これが
邪見であると気が付かないのである。
(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)