次に、簡単に、<縁起の苦>の原理について、お話したい。
仏教を学んだ人は、分かっていると思うが、6根と、ある種
の価値、または意義を持つ6塵が接触した時、6塵は、無明
の拠り所となる。
たとえば、目が樹木、石ころなどを一瞥した時、苦を生じる事
はないが、それは我々にとって、樹木とか石ころとかは、
価値も意義も持たないからである。
しかし、もし虎、女性、またはある種の価値を持つ事物を
見たならば、前者とは異なる事象が発生する。
もし、一匹の雄犬が、一人の美女を見たとして、美女は
犬にとってなんら意義がないが、これが一人の年若い青年が
美女を見たのであれば、その美女は、青年にとって、
非常に意味のあるものになってしまう。
この例で言うと、雄犬の「見る」行為と縁起は関係が無く、
青年の「見る」は、縁起と関係があるという事である。
(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)