[中間における滅尽]
最後の一つは、非常に不思議な説明の仕方のもの。
ただいくつかの経典にのみ、書かれている。
「集」は、すでに中途まで発展している、すなわち、愛まで
到達しているのに、「滅」に戻るーー愛滅するによって取滅し、
取滅するによって有滅し、有滅するによって生滅し、生滅する
によって、老死滅する。
これは非常に不思議な言い方だ。
覚音は、なぜ、前出の四種類だけ説明して、この種の解説を
取り上げないのか?
この説明の仕方は人を困惑させる。
無明によって行あり、行によって識あり、識によって名色あり、
名色によって六入あり、六入によって触あり、触によって受あり、
受によって愛あり。そして愛までくると、いきなり中断して
逆転し、愛滅するによって取滅し、取滅するによって有滅し、
有滅するによって生滅し、生滅するによって、老死滅し、
純なる大苦の聚の集が滅する(という)。
この説明の仕方は、まるで掌を返すように、正念が生じるや否や、
中間の段階において、大逆転が発生する事を言っている。
すなわち、縁起の流転が半分の所まできた時に、我々が覚醒した
ならば、縁起に従ってそのまま下流へと流転する事は免れる。
故に、中間の地点で、生は滅へと変化し、(そのことによって)
中間地点の愛が滅すれば、苦は、二度と生じる事はない。
これは、縁起における、不完全な苦のタイプである
(と考えられる)。
というのも、「集」から「滅」へと転換したため、中間に
おいて、苦が滅せられた訳で、これもまた、
縁起の一つのタイプでは、ある。
以上が、仏陀が、衆生の根機に合わせて色々に述べた、
五種類の縁起に関する説法である。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)