Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー61

《清浄道論》より以前に、結生識が縁起の始まりで、次に

新しい有が生じ、果が報ずるその後で、煩悩に従って、

来世を引き起こす、という事が書かれている、根拠の確かな

献は、ない。

このような事が、文字ではっきりと書かれたのは、1500年前、

《清浄道論》の中だけであり、この中において、初めて、

三世輪廻と結生識の記録が出てくる。

もしあなたが、《清浄道論》より前の根拠を確認したいと

思うなら、第三次結集の会議にまで遡らねばならない。

あの時、所謂「偽の僧侶」が、サンガを離れるように命令

されたが、「真の僧侶」はサンガに留まる事を許された。

偽であるか、真であるかと選別する時、僧侶は銘々、己の、

仏法に対する観点を表明するよう迫られた。

もし僧侶が「分別論者」でなく、生命を縁生の法、蘊、界、六入

に分解せず、漁師の子ティッサ比丘のように、輪廻生死する

主体があると表明する僧侶は「非分別論者」であって、常見の

保持者として、サンガを追放されたのである。

ということは、第三次結集の時、(人間に)主体がある、

と考えた僧侶は、僧籍を剥奪され、主体を認めない人だけが、

僧侶として、認められたのである。

ここから、我々は、常見は、2200余年前の、第三次結集から

始まっている事が分かる。

あの時、多くの、偽装して仏教徒となった僧侶、彼らは、

主体がある、または自我があると考えており、この事実に

して、仏教教団において、自我の有・無が、根本的な問題で

あったことが分かる。

これらの、偽の僧侶は、サンガを追い出されたが、それでも、

相当の人数の人々(サンガ内部またはサンガ外部)が、

自我はあると信じ、かつそういうふうに、教え導いていた

可能性がある。

私が言いたいのは、仏歴300年の第三次結集の前には、

基本的な教義は、まだ純潔を保っていた。

しかし、その後から、主体がある、自我があるという観念

に傾き始め、徐々に、曖昧模糊となって行ったのだ、という事。

間違った仏法は、これより先、伝播されていき、皆さんが

ご存知の通り、仏教はインドから消失したのである。

しかし、ジャイナ教(正しくはジナ教)は、なぜインドから

消え去る事はなかったのか?

それは、ジャイナ教の原始的な教義が、今に至るまで、

度も、改変されなかったからである。

仏教の基本的な教義が、「無我」から「我」に転換した時、

仏教は消滅してしまった!

自我の概念が仏教の入った時、仏教はいつの間にか自然と、

インドから消失してしまった。

これが、縁起が誤解されることによって生じた現象であり、

それは、文献上では《清浄道論》から始まっているのである。

私がここで述べたかったのは、縁起に関する解説が、

仏陀の本懐に違反するようになったのは、いつごろからなのか?

という事である。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)