Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー63

[名色の生と滅]

もし、あなたがこの問題を問うならば、三種類の、層の異なる

答えが用意される:

1、名色は一刹那毎に生滅している。しかし、こういう解釈は、

ほぼ誰も知らないし、知りたいとも思わない。または知る必要

がない、とまで(人々は)思う。

我々の名色、心身は、一刹那毎に生滅している・・・これは

アビダルマの解釈である。心は生起するやいなや継続して、

有分心の間で、生、住、滅を繰り返しており、一個の生、住、滅

の流転を、一刹那と言い、それは瞬きする一瞬の間より、短い。

この意味で言えば、名色または「人」は、一刹那毎に生滅して

おり、その速度は速すぎて、口頭で計算できないほどだ。

名色または「人」が一刹那において生滅しているという

言い方は、電流の周波数の解釈と似ている。電流が、連続して

不断に、電路を通過する時、パルスを生じる。これらのパルスは、

一分間のあいだに、千個以上あり、その速度は、識別できない

ほど、速い。

それらがそのように、迅速に発生するため、電球の光がいつも

安定して光っているように見える(訳者補足:電球の光が、実は、

チラチラと明滅しているのは、肉眼では、分からない)。

一念というのも、このように迅速で、それらが速すぎて、また

緊密に連続して発生する為、我々はそれの生と滅を、感じ取る

ことができない。

我々は、緻密な心理的な分析によって初めて、名色または「人」

は、一念の間に、緊密に、連続して、迅速に生滅していて、

それは電流より速い事を、理解することができる。

しかし、この種の生滅は、縁起とは関係が無く、縁起は、

この種の生滅を問題にしている訳では、ない。

一念毎の生と滅は、ただ単純に機械化された心理過程であり、

これは無駄に煩雑なアビダルマの知識であって、縁起とは関係

がない。

アビダルマが用いる<生>の意味は、縁起の中で語られる

<生(jāti)>ではなくて、生起(uppāda)であり、

その意味は「生」または「存在せしめる」で、その過程は

生起、滞留、壊滅、または生、住、滅である。

生起と生は、似ているようで異なるものである。

以上は、名色と「人」に関する、一つの説明の仕方である。

すなわち、迅速で緊密に連続している生、住、滅である。

(つづく)

訳者コメント:う~ん、私、アビダルマ、好きなのですが。

無駄に煩雑と言われても(苦笑)。タイのアーチャン・

チャーも、「アビダルマの試験に合格しなくても、悟る時は

悟るんじゃ」と言っている。確かに心の動きは速すぎて、それ

を微細に、全部見なければ悟れない、という事はないのかも

知れない。まぁ、ここは、個人の好み、という事で(笑)。。

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)