この種の解釈の仕方(縁起の三世輪廻説)における最大の損失は、
自由に、主体的に、煩悩・業をコントロールできなくなる事
である。というのは、我々と、煩悩・業とが、別々の時空に
存在する事になってしまうから。
今世は業報である・・・我々自身が業報であり、(皆さんが)
ここに座っているのも業報である。
しかし、この業報の初因が、過去世の煩悩と業であり、
そして、今世の煩悩、業が未来になって初めて、
その報いを受けるとしたら・・・このようであれば、我々は、
自分の行為(業)から、利益を受け取る事が、できなくなる。
言い換えるならば、我々は、行為(業)から、即座に業の
報いを受け取る自由が、ないことになる。
このような方式で縁起を解釈する時、我々は、今世において、
何をすることもできず、かつ、今世で何らの満足できる
結果も得られない、ということになってしまう。
今世に造した業(=今世でなした行為)は、来世を
待ってしか、その報いを受け取る事ができないとしたら、
そんな人生に、何の楽しみがあるだろうか?
これは仏法の原則ーー仏陀の、善にして妙なる様に宣揚した、
以下の法に違反している:
直接の体験と証明(sandiṭṭhiko)、
今・ここにおいて、成果を得る事が出来る(akāliko)、
皆、来たりて、共にみよ(ehipassiko)、
内に向かって観照し(opanayiko)、
ただ、智者のみが、自ら体験し、証明することができる
(paccattaṁ veditabo)。
三世の縁起は、完全に上記の原則に違反している。
それは、<生>の解釈を間違えて、縁起の一度の流転の中に、
三世をねじ込んだからである。
忘れてはいけない!
これこそが、使用する言語が不適切であったために生じた
混乱である事を。(つづく)
訳者コメント:煩雑を避けるため、原文P106 ~P107の翻訳を
省略しました。そこでは、ブッダダーサは「覚音を95%、
信頼しているが、5%の部分で信頼できない」と述べています。
ブッダダーサが問題にしているのは、覚音の「縁起を三世輪廻
と解釈した部分」と「世間解」「四遍浄戒」「涅槃の解釈」
の四点です。後者3点におけるブッダダーサの観点は、
No72、73で翻訳、紹介します。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)