Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー71

この種の解釈の仕方(縁起の三世輪廻説)における最大の損失は、

自由に、主体的に、煩悩・業をコントロールできなくなる事

である。というのは、我々と、煩悩・業とが、別々の時空に

存在する事になってしまうから。

今世は業報である・・・我々自身が業報であり、(皆さんが)

ここに座っているのも業報である。

しかし、この業報の初因が、過去世の煩悩と業であり、

そして、今世の煩悩、業が未来になって初めて、

その報いを受けるとしたら・・・このようであれば、我々は、

自分の行為(業)から、利益を受け取る事が、できなくなる。

言い換えるならば、我々は、行為(業)から、即座に業の

報いを受け取る自由が、ないことになる。

このような方式で縁起を解釈する時、我々は、今世において、

何をすることもできず、かつ、今世で何らの満足できる

結果も得られない、ということになってしまう。

今世に造した業(=今世でなした行為)は、来世を

待ってしか、その報いを受け取る事ができないとしたら、

そんな人生に、何の楽しみがあるだろうか?

これは仏法の原則ーー仏陀の、善にして妙なる様に宣揚した、

以下の法に違反している:

 

直接の体験と証明(sandiṭṭhiko)、

今・ここにおいて、成果を得る事が出来る(akāliko)、

皆、来たりて、共にみよ(ehipassiko)、

内に向かって観照し(opanayiko)、

ただ、智者のみが、自ら体験し、証明することができる

(paccattaṁ veditabo)。

 

三世の縁起は、完全に上記の原則に違反している。

それは、<生>の解釈を間違えて、縁起の一度の流転の中に、

三世をねじ込んだからである。

忘れてはいけない!

これこそが、使用する言語が不適切であったために生じた

混乱である事を。(つづく)

訳者コメント:煩雑を避けるため、原文P106 ~P107の翻訳を

省略しました。そこでは、ブッダダーサは「覚音を95%、

信頼しているが、5%の部分で信頼できない」と述べています。

ブッダダーサが問題にしているのは、覚音の「縁起を三世輪廻

と解釈した部分」と「世間解」「四遍浄戒」「涅槃の解釈」

の四点です。後者3点におけるブッダダーサの観点は、

No72、73で翻訳、紹介します。

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)