(熊本地震による余震もだいぶおさまり、
本日よりブッダダーサ著「生活の中の縁起」の
翻訳を再開いたします。ご心配頂いた皆様、
ありがとうございました)。
縁起は三世を貫通しない~~~
日常用語で縁起を解釈してはならない~~
[日常用語と法の言語の中の名色]
縁起は三世を貫通していない、なぜか?その理由は多い:
第一番目の理由は、日常用語と法の言語との関係。
縁起とは、勿論日常用語ではなく、その事は、以前にすで
に述べた。もし、縁起が日常用語であれば、以下のような
事柄が発生する:
ならない。というのも、無明が滅する時、行も滅し、識も滅し、
名色も滅する。ということは、仏陀はその場で死ななければ
ならない事になる。この事から、縁起とは、日常用語で
説明するような事柄ではない事が分かる。
無明が滅する時、行も則ち滅し、行が滅する時、識も則ち滅し、
識滅する時、名色も則ち滅する。
しかし、当時、仏陀は入滅する事はなく、その後45年を生きて、
我々に教えを垂れた。
この事は、縁起は、日常用語で説明してはならない事を意味
している。そして、縁起の流転もまた同じで、無明が生じるに
よって則ち行生じ、行生じるによって則ち識生じ、識生じるに
よって則ち名色生じるが、これもまた日常用語での、
名色の生じる事をいっているのではない。
というのも、仏陀は、受が生起する時、歓喜と楽が形成され、
そして引き続き愛(渇愛)、取、有、生が生じる、と言って
いるからである。
人の生とは、肉体の生を言うのではないし、人の死もまた、
肉体の死を言うのではない。人はそのままに存在していて、
人の心に生あり、滅ありーー「私(我ありという意識)」の
生、「私(我ありという意識)」の滅があるのである。
(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)