Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)-75

(熊本地震による余震もだいぶおさまり、

本日よりブッダダーサ著「生活の中の縁起」の

翻訳を再開いたします。ご心配頂いた皆様、

ありがとうございました)。

 

縁起は三世を貫通しない~~~

日常用語で縁起を解釈してはならない~~

[日常用語と法の言語の中の名色]

縁起は三世を貫通していない、なぜか?その理由は多い:

第一番目の理由は、日常用語と法の言語との関係。

縁起とは、勿論日常用語ではなく、その事は、以前にすで

に述べた。もし、縁起が日常用語であれば、以下のような

事柄が発生する:

仏陀が覚醒した後、菩提樹の下で、必然的に円寂しなければ

ならない。というのも、無明が滅する時、行も滅し、識も滅し、

名色も滅する。ということは、仏陀はその場で死ななければ

ならない事になる。この事から、縁起とは、日常用語で

説明するような事柄ではない事が分かる。

無明が滅する時、行も則ち滅し、行が滅する時、識も則ち滅し、

識滅する時、名色も則ち滅する。

しかし、当時、仏陀は入滅する事はなく、その後45年を生きて、

我々に教えを垂れた。

この事は、縁起は、日常用語で説明してはならない事を意味

している。そして、縁起の流転もまた同じで、無明が生じるに

よって則ち行生じ、行生じるによって則ち識生じ、識生じるに

よって則ち名色生じるが、これもまた日常用語での、

名色の生じる事をいっているのではない。

というのも、仏陀は、受が生起する時、歓喜と楽が形成され、

そして引き続き愛(渇愛)、取、有、生が生じる、と言って

いるからである。

人の生とは、肉体の生を言うのではないし、人の死もまた、

肉体の死を言うのではない。人はそのままに存在していて、

人の心に生あり、滅ありーー「私(我ありという意識)」の

生、「私(我ありという意識)」の滅があるのである。

(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)