wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー78

まずは取り敢えず、アビダルマの語義で説明するならば、

心が有分(bhavaṅga)にない、という状態の下、心は

有分を離脱して、転向(āvajjana)する。

この時、(心は)未だ「我(我ありという意識)」「我所有

(我がものという意識)」という状態には到達していなく、

未だ、縁起の流転の流れには流入していない。

この時の心の境涯は、自然で、平常な、空の状態にあり、

これを「求生」という。言い換えれば、人々の思考や感覚が、

正常に展開されている時、貪愛もなく、「我」「我がもの」

に執着する事もない。これが「求生」の状態である。

すべての人は「求生」である。すなわち、「我」「我がもの」

の出生を待っているものであるが、これは非常に可哀想な

「求生」である。というのも、人はどんなときにも

「私(我ありという意識)」「我がもの(という意識)」の中

に生まれようと、準備しているからである。

将に(心が)正念を失い、無明に蔽い隠される時に外境に

接触すると、すぐに「我」「我がもの」(という意識)が

生じるが、これは、更に可哀想な「已生」であって、

もっとも憐憫に値するものとして、法水を撒いて廻向する

べきは、この「已生」と「求生」なのである。

しかし、この「我」「我がもの」の意識を生み出す「已生」は、

瞬間的にその力(エネルギー)を失う。すなわち、一旦、

貪、瞋(怒り)という「已生」が出現したとして、

一時間もたたない内に、貪、瞋のエネルギーは消失し、

「已生」は死んでしまい、再び「求生」に戻ってしまう。

その後「求生」は再度、次に生まれ出るよう準備を開始し、

暫くすると、愛(渇愛)、瞋、恨、恐怖などによって、

(心は)「我」「我がもの」(という意識)を生み出し、

それは「已生」へと変化し、縁起の、再びの流転を引き起こす。

縁起の一回分の流転とは、「已生」の一回の出生であり、

「已生」の因と縁が散じて滅すると、それは死亡してしまい、

再び「求生」の状態に戻るのである。

この種の「求生」の解釈は、修行に用いる事ができ、

掌握する事ができ、受用する事ができ、(普通の)人々が

解釈する所の「求生」ーー人が死んだ後、お棺に入ると、

神識は身体から離れて、生まれ変われる場所を探すのだ、

という解釈とは、異なるものである。

私は、「求生」に関する、上述の、普通の人々の解釈を

認めないし、更に言うならば、この種の解釈は、縁起とは

無関係なのである。

というのも、この種の解釈は、我々にとって、それを受用

するのは困難であり、自ら見る事ができないだけでなく、

理解する事もできず、ただ他人の言説を信じるしかない

ものであるから。

最も重大な問題は、この種の「求生」は、常見に属する

という事である。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)