(中略)
簡単に言えば、縁起の生起は、正念がないために、好悪の心が
生じる事が原因であるが、人々は、どのように正念を打ち立て
てよいのか知らず、また、苦を滅する「心解脱」も知らない。
心の中にある種の要素がある時、縁起は生起し、その作用は、
この生、この地、この刻においてであり、それは死に至るまで
相続するが、何度の縁起があるのか、幾十度あるのか、幾百度
あるのか、幾千度あるのか、分からないくらいである。
この事から、縁起について、三世を貫通するのだという解釈は、
決定的に間違っているの事がわかるのである。
縁起は稲妻の如く生滅する~~
次に、更に重要な説明に突入する。
毎回の縁起の生起は、迅速すぎて、我々には知覚する事が
できず、それは、稲妻の様だ、と言える。稲妻は極めて迅速で、
一瞬の内に消失する。それほどの短い時間の中で、11種類の
状況が、または12の支分が、順序に従って発生するが、
余りに速すぎて、我々は察知する事ができない。
例えば、我々は、一たび怒ると、すぐに苦が生じる。
ただの一刹那の内に、我々はすでに、怒りの炎の
中で苦を受けている訳で、このようにして、
一度の縁起は完結する。
我々は、一刹那の間に、すべての、11種類の状況が、
完全に、順序に従って、生・滅しているのを知らない
(無明から始まり、行、識、名色、六入、触、受、愛、
取、有から生まで、一刹那の内に、11種類の状況は、
完全に具備される)。
例えば、我々の目が外境に接触する一刹那の間に、即刻に、
一回の、完璧な愛(渇愛)または瞋恚が発生するが、
この過程は、稲妻のように迅速である。
この瞬間は、11種類の状況に分析する事ができるが、
これこそが縁起なのである。
以前に述べたように、仏陀が述べた世間、世間の初因、
世間の滅尽、及び世間の滅尽する道(=方法)については、
《相応部》因縁篇家主品第四世間の中に書いてあるが、
仏陀は以下の如くに、縁起に基づいて、世間、世間の生起、
世間の滅尽と滅尽の方法を宣言している。
比丘たちよ!世間とはいかにして生じるのか?
目と事物が相接すると眼識が生じ、その三者の結合が
すなわち、触である。
触が縁となって、受が生じ、受が縁となって愛が生じる。
愛が縁となって取が生じ、取が縁となって有が生じる。
有が縁となって生が生じ、生が縁となって老病死が生じ、
ここに、純なる大苦の聚が集する。
比丘たちよ!これが世間の生起である。
通常、縁起の生起とは、仏陀の言う所の「世間の生起」を意
味するのである。苦の生起とは、世間の生起であり、
その一切は、他でもなく、六入(根)と外境(塵)の接触及び
識の発生によって、生じるものなのである。
我々にとっての困難は、縁起の流転が稲妻の如くに迅速で
ある事が原因で、無明から行、識、名色及び六入が造作
される内に、あっという間に二、三、四種類の状況が
継続しながら発生するため、我々が、それらを区別する
ことができない事である――我々が最初に察知するのは、
受ーー苦受、楽受で、心情が愉快であるか、憂鬱であるか、
である。
世間の滅尽も同じ事であって、無明が滅すれば行が則ち滅し、
行が滅すれば則ち識が滅し・・・など、これは苦の滅尽である。
世間の発生と滅尽について、仏陀は、このように説明している。
世間の発生と滅尽は稲妻のように迅速であるため、もし、
特別に注意深くなければ、縁起の迅速さを理解する事、
縁起が、11種類の状況を具備している事を、理解する事は
できないのである。(つづく)。
台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)