もし、有漏がことごとく取り除かれたならば、智見が生じ、
心が無漏の中にある事を照見する(事が出来る)。
解脱が出現する時、有漏をば、ことごとく取り除く智見が
出現する。
滅尽智の出現は、離貪が原因であるが、離貪は、厭離に
よって発生する。厭離は、究極なる智慧ーー如実知見に
より(生じ)、如実知見は定(サマーディ)を因として
生じる。定は、楽を因として生じ、楽は軽安を因として、
生じる。軽安は喜を因として生じ、喜は、悦を因として、
生じる。悦は信から生じ、信は苦を因にして、生じる。
今、我々は、縁起を再度、確認してみよう:
苦は、生があるためであり、生は、有があるためであり、
有は、取が原因で、取は愛が原因で、愛は受が原因で、
受は触が原因で、触は六入が原因で、六入は名色が原因で、
名色は識が原因で、識は行が原因で、行は無明が原因である。
上記の事は、有漏の止息には、因縁の順序に従う必要がある
事を示しており、上の図のように、信にまで至る。
もし、我々が、仏、法、僧に信頼を寄せ、滅苦の為の修行に
確信、自信を持つならば、これを<信>という。
今ここで、すべての因縁条件を遡って、確認してみたいと思う。
信(確信と信頼)ある時、則ち、悦あり、
悦ある時、則ち、喜あり、
喜ある時、則ち、軽安あり、
軽安ある時、則ち、楽あり、
楽ある時、則ち、サマーディあり、
サマーディある時、則ち、如実知見あり、
如実知見ある時、則ち、厭離あり、
厭離ある時、則ち、離貪あり、
離貪ある時、則ち、解脱あり、
その後には、滅尽智を得て、涅槃に至る。
このことから、まずは<信>を端緒として、漏は止息する事が
出来るという事が分かる。(つづく)
訳者コメント:中国語の仏教書を読んでいると<信>という
言葉は「信頼」「確信」「自信」の意味で使われている事が
分かる(今回の翻訳においても、誤訳しないように、細心の
注意を払った)。中国では、信仰の場合は、はっきり「信仰」
と表現する。日本は「確信の信」と「信仰の信」の区別が
はっきりしなくて、私が出家した時、近所の人に「君は、
仏教を信仰しているのか」と言われて、閉口した。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)