wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー87/92

もし、有漏がことごとく取り除かれたならば、智見が生じ、

心が無漏の中にある事を照見する(事が出来る)。

解脱が出現する時、有漏をば、ことごとく取り除く智見が

出現する。

滅尽智の出現は、離貪が原因であるが、離貪は、厭離に

よって発生する。厭離は、究極なる智慧ーー如実知見に

より(生じ)、如実知見は定(サマーディ)を因として

生じる。定は、楽を因として生じ、楽は軽安を因として、

生じる。軽安は喜を因として生じ、喜は、悦を因として、

生じる。悦は信から生じ、信は苦を因にして、生じる。

今、我々は、縁起を再度、確認してみよう:

苦は、生があるためであり、生は、有があるためであり、

有は、取が原因で、取は愛が原因で、愛は受が原因で、

受は触が原因で、触は六入が原因で、六入は名色が原因で、

名色は識が原因で、識は行が原因で、行は無明が原因である。

上記の事は、有漏の止息には、因縁の順序に従う必要がある

事を示しており、上の図のように、信にまで至る。

もし、我々が、仏、法、僧に信頼を寄せ、滅苦の為の修行に

確信、自信を持つならば、これを<信>という。

 

今ここで、すべての因縁条件を遡って、確認してみたいと思う。

信(確信と信頼)ある時、則ち、悦あり、

悦ある時、則ち、喜あり、

喜ある時、則ち、軽安あり、

軽安ある時、則ち、楽あり、

楽ある時、則ち、サマーディあり、

サマーディある時、則ち、如実知見あり、

如実知見ある時、則ち、厭離あり、

厭離ある時、則ち、離貪あり、

離貪ある時、則ち、解脱あり、

その後には、滅尽智を得て、涅槃に至る。

 

このことから、まずは<信>を端緒として、漏は止息する事が

出来るという事が分かる。(つづく)

訳者コメント:中国語の仏教書を読んでいると<信>という

言葉は「信頼」「確信」「自信」の意味で使われている事が

分かる(今回の翻訳においても、誤訳しないように、細心の

注意を払った)。中国では、信仰の場合は、はっきり「信仰」

と表現する。日本は「確信の信」と「信仰の信」の区別が

はっきりしなくて、私が出家した時、近所の人に「君は、

仏教を信仰しているのか」と言われて、閉口した。

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)