仏陀は、苦は、無明、行、識、名色等からきており、それは、
信の拠り所である、と言った。
言い換えれば、我々は、傷心する必要などなく、怖れる事なく、
退却する事なく、もし、我々が縁起をよりよく利用するならば、
苦は、信の礎となり、信は仏法を育成し、我々をして徐々に、
漏の止息にまで到達させてくれる。
こういう観点で苦を見るならば、比べるもののないほど醜い
ヒキガエルの額の上に宝石を一つ、発見したようなものなのだ。
しかし、普通、人々は、ヒキガエル、ネズミ、ムカデ、ミミズ
などの害虫を、嫌いまたは怖れる。
もし、彼らが、苦は信の助縁であると知るならば・・・、
苦は、信にまで進化、発展する事ができるのだという事を
知るならば、苦は、有用なものになる。
ここまで、私は多くを語った。
全部を覚えておくのは困難であるから、復習し、研究して欲しい。
最後に、私は簡単な結論を述べて、縁起の役割について
説明したいと思う。(つづく)
訳者コメント:「生活の中の縁起」ようやく終盤が
見えてきました。次は(以前、要望がありました)
パオ・セヤドーの著書(「菩提資糧」)を翻訳する予定です。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)