Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー90/92

あなたは、この一連の(現象の)どこかで、(現象を)止める

事ができるだろうか?

できないであろう。

それぞれのステップは、皆、お互いに緊密に密接しており、

他の何物かをさしはさむ余地は、ない。

これが「縁」の意味である。

縁起とは、お互いに依存し合っていて、かつ連結して

発生する状況を言い、ゆえに、それは、三有とか三世とかに

分断する事は出来ず、また字義から言っても、

それらを三有とか三世に分断する理由は、みられない。

実際、縁起と四聖諦は相関関係にあるため、その11種類の

状況を分解、分断する事はできない。縁起は、日常生活の中

の四聖諦であり、もし、それが三世を貫通するものだという

らば、それは我々にとって、何ら利益をもたらす事はないし、

「(仏陀の教えである)直接体験し、今すぐ成果を得られる。

皆来たりて、見よ。内に向かって観照し、智者自ら体験し、

証明せよ」と言うことが、できない。

もし、縁起は、三世にまでつながる事柄だという概念を

持っているならば、それはティッサ比丘と同じ、常見を

持つ人となってしまう。

もし、縁起を三有または三世に分断するならば、縁起は、

面白い研究課題となり、事実とは遠く離れてしまうーー

それは、縁起に関する、興味深い研究または議論に

なってしまう。

道理が深ければ深いほど面白いが、しかし、実践する事

の出来ない理論に成り下がった時、それは無価値な物と化す。

ただ、原始パーリ経典に記述されている所の、正確な縁起のみ

が、実践可能、掌握可能であり、すべて、我々の手の届く範囲

にあるのである。

言い換えれば、(この縁起は)我々が実践でき、処理できるが、

三世に亘る縁起は、腫瘍または癌のように、薬効のないもの、

救いのないものになってしまう。

3、触が、相当に大きくなった子供(子宮内の胎児でもなく、

おしゃべりを始めたばかりの赤ちゃんでもなく)に生起する時、

縁起は、その運用を開始する。この嬰児は、いくらかの事情を

理解できるほど大きくなくてはならないが、かつ、よく物事を

理解するか、または智慧があって、触の何たるかを知っている

という状況ではなく、無明ーー正念を欠いた触(を持するの)

である。

外縁と内根の接触が、識を生じせしめるが、その後すぐに

引き続き、名色、六入が生じ、その後、新しい名色または

六入が、無明によって、その作用を生じせしめる。

これら全ては、一瞬の内に生起し、稲妻のように迅速で、

もしそれが強烈である場合、人を吃驚させる事もある。

(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)