上記(No10)について、注疏では以下のような説明がある:
「暫時」:いついかなる時においても、安止定に入りさえすれば、
(暫定的に)煩悩を離れる事ができる;心解脱とは、色界と無色界
心解脱(すなわち:色禅と無色禅)を指す。《無碍解道》の中で
は:’Cattāri ca jhānāni catasso ca arūpasamāpattiyo、
ayaṁ sāmāyiko vimokkho’ーー「四色禅と四無色禅は、
暫定的な解脱である」と書かれている。
何故か?
比丘がジャーナに入る時、色禅でああろうと、無色禅であろうと、
その煩悩は、ただジャーナに安住している時のみ、暫定的に停止
するからである。比丘がジャーナから出ると、各種の目標に
対する不如理作意(ayoniso-manasikāra)によって、煩悩は、
再び引き起こされる(からである)。
ジャーナに入っている時は、比丘はジャーナの目標、例えば、
地遍だけを知覚している。もし、彼が安定的に当該の目標に
専注することができるならば、彼の深くて強く、かつ力のある
禅支が煩悩と対抗し、諸々の煩悩は生起する機会を失う。
これが、暫定的解脱(sāmāyika-kanta cetovimutti)である。
永恒与不可動揺的心解脱(asāmāyika-akuppa cetovimutti):
これは、煩悩の暫定的解脱ではなく、永恒的出世間心解脱である。
経の中ではこう言われている ’Cattāro ca ariyamaggā
cattāri ca sāmaññaphhalāni、ayaṁ asāmāyiko
vimokkho.’ーー「四聖諦と四沙門果は永恒の解脱である」
(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)