空~
(什麼是)一切相(sabbanimittānaṁ):
名色を、相又は行(saṅkhāra)と言う。仏陀が阿羅漢果定に入った時、
生じた阿羅漢果心は無名無色の涅槃を縁とし、その目標とした。
その中には、全くもって、名色の相ーー色彩等々はない。この安住は、
如来が発見したものである。彼は一切の相を作意しないという事を
通して、空に安住していたのである。
まず、それ自身の特質に基づいて、果定を空と称するが、その目標
である涅槃もまた、空と称する。というのも、それは全き、無貪、
瞋、痴(無知)であるから。また、道に入る、その方式にみあう形
で、解釈する事も出来る。なぜなら、観智(vipassanā-ñāṇa)も
また「空」(suññata)、「無相」(animitta)及び「無願」
(appaṇihita)と呼ばれるからである。
この事から、若し、比丘が諸々の行法の無常を観照し、聖道が無常の
内より導き出され(そして、涅槃に趣向する)のであるならば、
この、聖道へと導くように生起する観智は、すなわち、「無相」と
呼ばれる。
若し、比丘が、諸々の行法について、不断に生滅の逼迫を受けると
いう、苦の一面を観照するならば、聖道への導きは、苦から生起する。
この時の、聖道へと導く観智を「無願」と呼ぶ。
もし比丘が、諸々の行を無我として観照し、その時、聖道が無我より
導き出されるならば、その聖道を導き出した観智を「空」と呼ぶ。
このように、道が、無相の観智から生じた時は無相といい、
無相道の果もまた無相と呼ばれる。
無願と空についても、同様である。(つづく)
訳者コメント:「月はあなたが見る時、あるのです」と、
インドの聖者が言っているのを、何かの本で読んだことが
ありますが、仏陀の「一切の相を作意しない」というのも、
同系の事を言っているのでしょうか?
作意しない→あるがまま(に観照する)。
あるがままを、<今の自分のまんまでいいのだ!>という風に
とらえる人がいますが、それはちょっと、違うみたいですね(笑)。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)