「比丘如此安住時、若其心傾向於行走、他即行走、心想:
『当我如此走著時、没有貪婪及憂愁不善悪法会困擾我。』
如是、他対該(過程)擁有完全的明覚。比丘如此安住時、
若其心傾向於站立、他即站立・・・若其心傾向於坐、
他即坐・・・若其心傾向於躺臥、他即躺臥・・・心想:
『当我如此躺臥時、没有貪婪及憂愁不善悪法会困擾我。』
如是、他対該(過程)擁有完全的明覚。」
如此安住とは何か?
彼(+修行者)は、このように、止と観において、安住する。
如是、他対該(過程)擁有完全的明覚:
かくの如くに、彼は歩いている時、その業処を成就する時、
彼はすでに、覚知する事を通して、自己の業処を成就しており、
かつ、完全な明覚を擁している。
ここにおいて、彼は何ほどかの時間歩いた後、彼は「私はこんなに
長く歩くことができる」と覚知し、立ち止るべき時だと思ったなら
立ち止る。その場合、姿勢を変える時の(+動作の)順序への知覚
を中断してはならない;どの段階においても、このように(覚知)
する事。
ここにおいて、彼(+修行者)が、一つの姿勢毎に空に進入し、
かつ安住しているのだ、と言う。
(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語翻訳文責Pañña-adhika sayalay)