wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-31

親戚等について、もし、楽欲を満足させるために、「我々の親戚は

勇敢で、有能だ」または「以前、我々はこのような乗り物に乗って、

あちらこちら遊びに行った」と言うのであれば、不適切である。

しかし、(+話す言葉に)意義があるように(+配慮して)、

「それらの親戚でさえも死んでしまった」または「以前、我々はこの

ようなサンダルをサンガに供養した」のように、言うべきである。

村については、もし、某村が住みやすいか、住みにくいかとか、

または、托鉢しやすいとか、しにくいとか、または、欲楽を満足

させるために「どこそこの村の住民は勇敢で、有能だ」と言うなら

不適切である。

しかし、(+話す言葉に)意義があるように(+配慮して)、

「彼らは(仏法に対して)確信がある」または「彼らはすでに

壊滅して死亡した」と言うのなら、適切である。

もし、欲楽を満足させるために、女性の外面、姿態等について

論じるなら、それは不適切である。「彼女たちは(仏法に対して)

確信がある」または「彼女たちはすでに壊滅した」と言うのなら、

適切である。もし、欲楽を満足させるために、英雄について

「難陀友という名の戦士は英雄である」と語るなら不適切である。

「彼には(+仏法に対して)確信がある」または「彼はすでに

壊滅した」というのなら、適切である。

もし、欲楽を満足させるために、街角の住民について「どこそこの

街の住民はあいそがよい、勇敢で有能だ」と論じるなら、それは

不適切である。「彼らには(仏法に対して)確信がある」または

「彼らはすでに壊滅した」という時、それは適切である。

談井>とは、水汲み場の事か、または水汲み女について談ずる

ものである。もし、欲楽を満足させるために「彼女は美人だ、

踊りも歌もうまい」と論ずるなら不適切である。「彼女には

(仏法に対して)確信がある」等と言う時、それは適切である。

(+ )訳者。(つづく)

(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)

中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)