親戚等について、もし、楽欲を満足させるために、「我々の親戚は
勇敢で、有能だ」または「以前、我々はこのような乗り物に乗って、
あちらこちら遊びに行った」と言うのであれば、不適切である。
しかし、(+話す言葉に)意義があるように(+配慮して)、
「それらの親戚でさえも死んでしまった」または「以前、我々はこの
ようなサンダルをサンガに供養した」のように、言うべきである。
村については、もし、某村が住みやすいか、住みにくいかとか、
または、托鉢しやすいとか、しにくいとか、または、欲楽を満足
させるために「どこそこの村の住民は勇敢で、有能だ」と言うなら
不適切である。
しかし、(+話す言葉に)意義があるように(+配慮して)、
「彼らは(仏法に対して)確信がある」または「彼らはすでに
壊滅して死亡した」と言うのなら、適切である。
もし、欲楽を満足させるために、女性の外面、姿態等について
論じるなら、それは不適切である。「彼女たちは(仏法に対して)
確信がある」または「彼女たちはすでに壊滅した」と言うのなら、
適切である。もし、欲楽を満足させるために、英雄について
「難陀友という名の戦士は英雄である」と語るなら不適切である。
「彼には(+仏法に対して)確信がある」または「彼はすでに
壊滅した」というのなら、適切である。
もし、欲楽を満足させるために、街角の住民について「どこそこの
街の住民はあいそがよい、勇敢で有能だ」と論じるなら、それは
不適切である。「彼らには(仏法に対して)確信がある」または
「彼らはすでに壊滅した」という時、それは適切である。
<談井>とは、水汲み場の事か、または水汲み女について談ずる
ものである。もし、欲楽を満足させるために「彼女は美人だ、
踊りも歌もうまい」と論ずるなら不適切である。「彼女には
(仏法に対して)確信がある」等と言う時、それは適切である。
(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)