無恨思惟~
もし、比丘が、ある人またはすべての有情に、ジャーナに入るまで、
慈愛を散布しつづける事ができるなら、その慈心はすなわち、
最高の無恨思惟である。
慈心とは、一切の有情に、幸福と楽しさをもたらすよう、希望する
ものであるから、それは、瞋恚と怨恨の心を取り除く事ができる。
無害思惟~
もし比丘が、ある人、またはすべての有情に、ジャーナに入るまで、
悲心を散布しつづける事ができるなら、その悲心はすなわち、
最高の無害思惟である。
悲心とは、衆生が苦難を受けていると知った時、発動する憐憫の心
である。それは、他人の苦しみを抜き取り、残忍と対立するものである。
もし比丘が、今世で涅槃を証悟したいと思うならば、彼は、以下の
ような思惟を行わねばならない。
それは、定の修習で、例えば、安般念の修習に、専心しなければ
ならない。あなたは、五蘊及びそれらの因である三相を観照
しなければならない;瞋恚と怨恨及び害意が生じた時、
一切の衆生に、慈愛と憐憫を、散布するべきである。
(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)