wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-40

阿羅漢道へ向かう道~

経の中で、仏陀は、阿羅漢道へ向かう道について開示した:

「阿難、有此五取蘊、比丘応当如此観照它們的生滅;如是色

(iti rūpaṁ)、如是色之生起(iti rūpassa samudayo)、

如是色之滅尽(iti rūpassa atthaṅgamo);如是受、如是受之

生起、如是受之滅尽、:如是想、如是想之生起、如是想之滅尽;

如是行、如是行之生起、如是行之滅尽;如是識、如是識之生起、

如是識之滅尽。」

上記の経文は、阿羅漢道を証悟したい時に、有していなければ

ならない観智を指摘している。それは、「我あり」という我慢

=慢心)、すなわち、色法または受等々に基づいて、「我あり」

と言う、潜在的な意念を断ずることである。

須陀洹道と阿羅漢道に向かう道の間の行道には、特別違いがある訳

ではない。須陀洹道であっても、阿羅漢道であっても、それを証悟

したいのであれば、人々は、必ず上記の五蘊について、観照しな

ければならない。しかし、須陀洹は、ただ部分的に五蘊を理解し、

阿羅漢は、徹底的に五蘊について理解している。

故に、五蘊を観照する時、明覚は非常に重要である。

阿羅漢道を証悟するには、明覚は必要条件である。

如是色(とは何か?);色法は28種類ある。比丘はそれらの一つ毎

の特徴、作用、生起と近因を識別しなければならない。

如是色之生起(とは何か?);生起には二種類ある。その内の一つは、

「縁生」で、もう一つは「刹那生」である。

比丘が、諸蘊が、無明、愛、取、行、業などの生起を因として

生起する事を知見する時、それは縁生を知見しているのである。

彼が生相及び変易相によって、諸蘊の生起を知見する時、

れはすなわち、刹那生である。

如是色之滅尽(とは何か?);比丘が、諸蘊が、無明、愛、取、行、

業などが滅尽するのを因として、滅尽するのを知見する時、

それはすなわち、縁生の知見である。彼が生相及び変易相によって、

諸蘊の刹那滅尽を知見する時、それはすなわち、刹那滅の知見である。

このように、無明等の滅尽とは、それらの完全なる滅尽を指している。

これはどのような時に発生するのか?

比丘が阿羅漢道を証悟する時、一切の煩悩は、完全に滅尽する。

無明などを含む一切の煩悩が完全に滅尽した後において、

彼が涅槃を証入する時、一切の蘊もまた滅尽する。諸

蘊の生滅を観照する時、比丘はこの二種類の生滅を知見するよう

チャレンジする必要がある。

あなたは、次の事に注意しなければならない。もしあなたが止観の

修習をしている時に、未だ凡夫であれば、阿羅漢道を証悟するのは

未来において、という事になる。あなたは、一切の煩悩が(未来に

おいて)阿羅漢道を証悟する時に完全に滅尽し、また、般涅槃を

証入する時は、一切の蘊もすべて滅尽する事を、観照しなければ

ならない

現在果(vipāka)を引き起こす業は、過去世において、無明、愛、取

に取り巻かれて造られた業である。現在業は、今世の結生識及びその他

の果報心を生じさせる事は出来ない。故に、もしあなたが、諸蘊の縁が、

無明等が生起することによって生起する事を観照したいと思うならば、

あなたは過去世において、無明等に取り巻かれて造られた業を見る必要

がある。

そして、当該の業を見るためには、あなたは、名色法を過去世にまで

(+遡って)、識別しなければならない。

では、引き続き《大空経》に耳を傾けてみよう。

(= )(+ )訳者。(つづく)

訳者コメント:上記文中の中国語<我慢>は、<高慢心>と

訳したかったのですが、あえて<慢心>としました。

実は、仏教では、卑下心もまた<我あり>という意識から

来るので、否定すべきものだと言います。その事を踏まえて、

高慢心と卑下慢心の両方を表すのに、<慢心>を使いました。

日本と中国の仏教言語・文化、似ているようで、似ていない。

頭の痛い所です。

(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)

中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)