同様にして、初禅は善であり、それに相応する名法は善であり、
かつそれは善から生まれる為、(+善自身と善から生まるという
事において)二者(=二種類の善)に渉っている。
もし比丘が、第二禅を証したいのであれば、彼は必ず初禅の五自在
(すなわち、自在に入禅し、禅に安住し、<+自在に>出定する事
等)を修習しなければならない。
彼は、必ず、初禅を基礎にして、初めて第二禅を修習する事ができる。
もし、初禅を基礎にしないのならば、彼は第二禅を証する事はできない。
故に、第二禅は善自身であり、かつ善より生じるという事に於いて、
二者に渉るものである。第三禅なども同様である。
(なぜ)聖潔(というのか?):これらのジャーナ法は、煩悩が無く、
かつ清浄であるから。
出世間:ジャーナ法には、世間禅と出世間禅の二種類があるが、ここで
言っているのは出世間禅である。というのも、それらは世間を超越して
おり、かつ清浄なる法であるから。但し、それらが已に生死輪廻を離脱
した、という事はない。
(上記で述べた)邪悪者無法接触:魔王がそれらに接触する事ができない
事を言う。というのも、魔王は、八定に安住する比丘の禅心を見る事が
出来ず、ジャーナが何を目標として生起するのかを、見る事ができないから。
ジャーナをば、観禅を修習する時の基礎にするならば、魔王にとっては、
それらを見る事は困難である。また、彼にとっては、如何なる相を目標
としてジャーナが生起しているのかを知るのも難しい。
これが(+仏陀が)「無法接触」と語る理由である。
(+ )(= )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)