Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-81

(四)師に見える(sattāradassana);

仏陀に見える:これは、仏陀本人に会う事を言っている。ただ、生きて

いる仏陀の前で発した至上願だけが効力がある。

世尊が般涅槃を証した後、仏塔の前、菩提樹の下、仏像の前、辟支仏(paccekabuddha)の前、または仏弟子の前に発した至上願は、

無効である。

なぜか?

というのも、これらの対象は、当該の願を確定する能力に欠けている

からである。

(五)出家(pabbajjā);

ただ出家して仏教の比丘になるか、または業因と業は報を生じせしめる

という事を信じる沙門(kammavadī、kiriyavadī)が、仏陀の前で

発した至上願だけが有効である。在家者が発する至上願は無効である。

なぜか?

在家の身では仏陀の出家の身と相応しないからである。

最後の一世の時、偉大なる菩薩は、必ず出家の後においてのみ、

仏果を証悟する事ができ、いまだ在家の身でありながら証悟する、

ということは、ない。

このように、その至上願を発する時、必要とされる資質を具足して

いる出家者の発した願だけが有効であり、仏果を証悟するのに必要

な特別は資質は、ただ出家者にのみ存在する。

(つづく)

訳者コメント:上記、<出家でなければ仏陀になれない>と、

阿羅漢になったら、必ず出家しなければならない、という説、

ちょっとこんがらがりますね。

大乗はテーラワーダを批判して、出家主義だと言いますが、

テーラワーダは、在家でも聖者になれる事は否定していないです

(仏典の中に、名前は忘れましたが、在家で預流果になりながら、

多く子をなした女性が出てきます)。ただ、阿羅漢になったら、

それを知らない在家が彼を辱めると、在家の大きな悪業になるので、

阿羅漢自ら社会から退出して、寺又は森に入る、という事はあると

聞きました。

私は自分が出家していることもあり、社会に一定数の出家者が存在

する事は、社会の価値観の多様化、重層化という意味で、よい事だ

と思っています。ただし、出家と在家は入れ替え自由で、河の水は

流れるが故に清らか、という状況を保たねば、組織は腐りますね

(出家を生活の糧、商売にしてはいけない)。

(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)

中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)