(四)師に見える(sattāradassana);
仏陀に見える:これは、仏陀本人に会う事を言っている。ただ、生きて
いる仏陀の前で発した至上願だけが効力がある。
世尊が般涅槃を証した後、仏塔の前、菩提樹の下、仏像の前、辟支仏(paccekabuddha)の前、または仏弟子の前に発した至上願は、
無効である。
なぜか?
というのも、これらの対象は、当該の願を確定する能力に欠けている
からである。
(五)出家(pabbajjā);
ただ出家して仏教の比丘になるか、または業因と業は報を生じせしめる
という事を信じる沙門(kammavadī、kiriyavadī)が、仏陀の前で
発した至上願だけが有効である。在家者が発する至上願は無効である。
なぜか?
在家の身では仏陀の出家の身と相応しないからである。
最後の一世の時、偉大なる菩薩は、必ず出家の後においてのみ、
仏果を証悟する事ができ、いまだ在家の身でありながら証悟する、
ということは、ない。
このように、その至上願を発する時、必要とされる資質を具足して
いる出家者の発した願だけが有効であり、仏果を証悟するのに必要
な特別は資質は、ただ出家者にのみ存在する。
(つづく)
訳者コメント:上記、<出家でなければ仏陀になれない>と、
阿羅漢になったら、必ず出家しなければならない、という説、
ちょっとこんがらがりますね。
大乗はテーラワーダを批判して、出家主義だと言いますが、
テーラワーダは、在家でも聖者になれる事は否定していないです
(仏典の中に、名前は忘れましたが、在家で預流果になりながら、
多く子をなした女性が出てきます)。ただ、阿羅漢になったら、
それを知らない在家が彼を辱めると、在家の大きな悪業になるので、
阿羅漢自ら社会から退出して、寺又は森に入る、という事はあると
聞きました。
私は自分が出家していることもあり、社会に一定数の出家者が存在
する事は、社会の価値観の多様化、重層化という意味で、よい事だ
と思っています。ただし、出家と在家は入れ替え自由で、河の水は
流れるが故に清らか、という状況を保たねば、組織は腐りますね
(出家を生活の糧、商売にしてはいけない)。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)