もし、菩薩道を修習すると発心した者が、長い間、貪欲の影響を受けて
いたために、ある物に執着の心を起こしたならば、彼は、以下のように
省察しなければならない:
「発願した時、あなたは、自己の生命と修行によって得た善業でもって、
衆生を援助しようと誓ったのではないか?身体の外の物に執着するのは、
大象が池で沐浴するようなものだ(注1)。故に、あなたは物に執着を
してはならず、それは例えば、薬の元になる木のように、根が欲しい者
は根を持って行ってもよく、樹皮が欲しい人は樹皮を、枝幹が欲しい人
は枝幹を、木の心が欲しい人は木の心を、葉が欲しい人は葉を、
花が欲しい人は花を、実が欲しい人は実を、それぞれ好きなだけ、
もっていってもよい。根や皮を持ち去られても、薬樹はそのことで
影響を受けるという事はなく、『彼らは私のものを奪い去った』と
思ったりすることは、ない。
菩薩は、また、このように省察しなければならない:
「衆生の利益と幸福の為に極力奮闘している私は、どのような微小な
悪い考えであっても、放縦であってはならず、この、痛苦、不浄が
充満した身体を善用しなければならない。内部の、また外部の四大は、
皆、壊滅を逃れる事はできないし、内外の四大は、本質的には、何らの
違いはない。
この、区別がないという状況の下で、もし、身体に執着して『これは
私のもの、これこそ私、これは私自身』と思うならば、それは単なる
無知、愚かさの表出にすぎない。
故に、身体の外にあるものと同じく、私は自分の手、足、目、肉と血に
顧慮することなく、全身を捨棄するよう準備しながら、こう思う:
『どこでも、欲しいと思う人は、その部分を持ち去ればよい』と」
注1>そのほかの動物が沐浴するのは、身体を洗う為であるが、
大象は、身体を洗う為ではなく、蓮花を踏みつぶす目的だけで、
沐浴する。大象の沐浴は役に立たず、身体への執着もまた、
なんらの結果ももたらす事はなく、仏果の利益をもたらす
ことも、ない。
(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)