この事から見ると、パーリ語経典の中の《仏種姓経》と《施分別経》
の間には矛盾があるように思われる。
しかし、もし、《施分別経》の説かれた対象が、普通の人と天神であり、
《仏種姓経》は、もっぱら一切知智、または仏智を証悟したい菩薩行
実践者に向かって説かれたものであるとしたら、この矛盾は納得の
いくものに変わる。
菩薩は、どのような受者であっても、来たものは拒まず、彼らが
上、中、下の人物なのかどうかなど考慮することなく、差別なしに、
布施をしなければならない。
彼は「この者は下等なる受者だ。もし彼に布施したなら、私は将来、
下等な仏智しか得られないだろう。この者は中等なる受者だ。
もし彼に布施したなら、私は将来、中等な仏智を得られるだろう。」
などと考える必要はない。
ゆえに、一切知智を証悟したいという(+心の)傾向を持つ菩薩は、
一切の、自分の所へやってきた受者に、差別心なく布施をするのは、
当然の修習に相当する。
しかし、普通の人々や天神が布施の修行をする目的は、喜ばしい世俗の
楽であるから、最もふさわしい受者を選んで布施の対象とするのは、
自然なことなのである。
結論:菩薩を対象とする《仏種姓経》と、普通の人々と天神を対象と
する《施分別経》などの経典の間には、矛盾は見られない。
(+ )訳者。(つづく)
訳者コメント:上記の説明は、経典上での解釈でありますが、現実
長老、尊者に布施をすることが多く、一段身分が低いsayalayに
布施をする事が少ない傾向があります(sayalayより、比丘の方が
<よき受者>であるという概念がある為)。
タイでは、メーチィラシン(女性出家者、緬甸のsayalayと同じ)
では嫌だ、相応の尊敬を得られる正統の比丘尼になりたいと
した女性がいます。
彼女は、比丘と全く同じ三衣で、托鉢に町々(大きな仏塔がある町。
ナコンパトムだったと思います)を回りますが、おおむね好意をもって
迎えられたそうです(最初は、反対意見もあったとか。男性中心の
サンガが反対するのは、既得権????)。ただし、パオ・セヤドーの
名誉のために、一言。パオ森林寺院では男女差別はなるべく無いよう
に心がけており、セヤドーのご配慮で、私たちsayalayも、比丘と同じ色
の法衣を着ることが出来ます(他の寺院では、sayalayは、スカートは
柿色、大衣はピンク)。とは言え、比丘のような、全身を覆う大衣、
ローブは、パオでも、許されない(あれが、かっこいいのですがね~笑)。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)