Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-117

四、智慧波羅蜜

智慧波羅蜜に関して言えば、それは大悲心と方法善巧智(=方便)を

基礎にして、諸法の共相(=共通する性質)と特相(=特徴)を

見通す心所である。

その特徴は、諸法の実相を見通す事、または、まったくの錯誤なしに、

目標の共相と特徴を観照する事。

それはまるで、熟練の射手が、たった一本の矢でもって、目標を打ち

抜くが如くである。

その作用は、その目標を、電灯の如くに照らし出す事;

現起(=現象又は結果)は、混乱しない事;

それはまるで、ガイドが、森の中で迷った旅人を導くが如くである;

近因は、定力又は四聖諦。

智慧波羅蜜については、下記のように省察するべきである:

「もし智慧がないならば、布施等の徳行は、清浄にはならないし、

それぞれの作用を引き起こすことができない。

そうなれば、すなわち、生命を失った身体の光沢が無くなるが如くで

あり、各種の功能も執行する事ができない;

心が無くなったら、諸根は各自の範囲内において、その作用を遂行する

ことができない。

智慧は、そのたの波羅蜜を修習する主因である。

というのも、慧眼が啓いた時、偉大なる菩薩は、毛筋ほども自己を

讃嘆することなく、また他人を貶める事なく、自分の身体と器官を

捨て去るから事が出来るから。

まるで薬樹のように、彼はまったくの分別心(=区別や差別する心)

なしに献身する事が出来る。

(献身する、その前、最中、その後の)三時においても、(+心に)

喜悦が充満する。

智慧の上に、更に、方法善巧智を運用し、他人の利益と幸福のために

なした捨離は、波羅蜜の性質を有するが、しかし、自分の利益の為に

なした布施は、まるで一種の投資のようである。

次に、もし智慧がないならば、戒は、渇愛等の煩悩を断ちきることが

できないし、そうであれば、清浄にも達することができず、

さらに正等正覚(を獲得した)者の美徳の基礎とすることもできない。

智者のみが、はっきりと、在家生活、欲楽と生死輪廻の厄害を見極める

事ができるし、また、出家、ジャーナの証悟と涅槃の証得の利益を

見通すことができる。

そして、彼は独自に出家し、ジャーナを育成し、涅槃に趣き、そして、

他人にも、これらの成就を得させようとする。

智慧のない精進は、必要とされる目的に到達することはできない。

というのも、それらを励起する方式が間違っているから。

故に、完全に精進を励起しない方が、間違った精進をするより、

まだましだ。しかし、精進と智慧が組み合わさった時、かつ、その上に

正確な方法が具備されたならば、成し遂げられないものはなにもない。

(+ )(= )訳者。(つづく)

訳者コメント:下線は訳者が加筆。どこかの教団を思い出して、

進む方向を間違った精進は、百害あって一利なし、を教訓に

しなければなりません。また、分別心を<区別や差別する心>

としたのは、実は、禅僧の著書を読んでいると、<無分別>と

いう言葉がよく出てくるのですが、本当には何が言いたいのか

よく分からず、自分なりに、差別はいけないが区別するべき時、

差別も区別もいけない時、などを想定してみました。ご参考まで。

(世界は一つながりに繋がっているために無分別で

あれというのは、深い境地が必要で、それはまた別、かな)。

(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)

中国語版→日本語翻訳文責Pañña-adhika sayalay)