四、智慧波羅蜜
智慧波羅蜜に関して言えば、それは大悲心と方法善巧智(=方便)を
基礎にして、諸法の共相(=共通する性質)と特相(=特徴)を
見通す心所である。
その特徴は、諸法の実相を見通す事、または、まったくの錯誤なしに、
目標の共相と特徴を観照する事。
それはまるで、熟練の射手が、たった一本の矢でもって、目標を打ち
抜くが如くである。
その作用は、その目標を、電灯の如くに照らし出す事;
現起(=現象又は結果)は、混乱しない事;
それはまるで、ガイドが、森の中で迷った旅人を導くが如くである;
近因は、定力又は四聖諦。
智慧波羅蜜については、下記のように省察するべきである:
「もし智慧がないならば、布施等の徳行は、清浄にはならないし、
それぞれの作用を引き起こすことができない。
そうなれば、すなわち、生命を失った身体の光沢が無くなるが如くで
あり、各種の功能も執行する事ができない;
心が無くなったら、諸根は各自の範囲内において、その作用を遂行する
ことができない。
智慧は、そのたの波羅蜜を修習する主因である。
というのも、慧眼が啓いた時、偉大なる菩薩は、毛筋ほども自己を
讃嘆することなく、また他人を貶める事なく、自分の身体と器官を
捨て去るから事が出来るから。
まるで薬樹のように、彼はまったくの分別心(=区別や差別する心)
なしに献身する事が出来る。
(献身する、その前、最中、その後の)三時においても、(+心に)
喜悦が充満する。
智慧の上に、更に、方法善巧智を運用し、他人の利益と幸福のために
なした捨離は、波羅蜜の性質を有するが、しかし、自分の利益の為に
なした布施は、まるで一種の投資のようである。
次に、もし智慧がないならば、戒は、渇愛等の煩悩を断ちきることが
できないし、そうであれば、清浄にも達することができず、
さらに正等正覚(を獲得した)者の美徳の基礎とすることもできない。
智者のみが、はっきりと、在家生活、欲楽と生死輪廻の厄害を見極める
事ができるし、また、出家、ジャーナの証悟と涅槃の証得の利益を
見通すことができる。
そして、彼は独自に出家し、ジャーナを育成し、涅槃に趣き、そして、
他人にも、これらの成就を得させようとする。
智慧のない精進は、必要とされる目的に到達することはできない。
というのも、それらを励起する方式が間違っているから。
故に、完全に精進を励起しない方が、間違った精進をするより、
まだましだ。しかし、精進と智慧が組み合わさった時、かつ、その上に
正確な方法が具備されたならば、成し遂げられないものはなにもない。
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者コメント:下線は訳者が加筆。どこかの教団を思い出して、
進む方向を間違った精進は、百害あって一利なし、を教訓に
しなければなりません。また、分別心を<区別や差別する心>
としたのは、実は、禅僧の著書を読んでいると、<無分別>と
いう言葉がよく出てくるのですが、本当には何が言いたいのか
よく分からず、自分なりに、差別はいけないが区別するべき時、
差別も区別もいけない時、などを想定してみました。ご参考まで。
(世界は一つながりに繋がっているために無分別で
あれというのは、深い境地が必要で、それはまた別、かな)。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語翻訳文責Pañña-adhika sayalay)