図書館からラメッシの『誰がかまうもんか?!』を借りてきて、
読んでいます(ラメッシは、ニサルガダッタ・マハラジの弟子で、
ニサルガダッタはラマナ・マハルシの弟子)。
返却期限が迫っており(近々、瞑想会のため、10日ほど家を
留守にするので、本を早めに返却しなければならないため)、
内容をゆっくり吟味したわけではありませんが、
覚書を書いてみます、自分の為です。
p130
ラメッシ:
「量子力学的可能性から意識が何を選ぶかは、無意識の過程で
ある。人が自分の選択に気付くのは、脳波に現れる『潜在的
可能性』よりも半秒遅れいてる」
「したがって、西洋で最も貴重な『所有物』である自由意思は
存在する事ができない」
これ、瞑想して、定に入るとリアルに分かります。
我々が座禅して「ああ、足、痛いなぁ」という思いが生まれる前、
意識と無意識の境界線においては、それはただのモヤ~とした
感受に過ぎない。
しかし、やがて、幼いの時の言語体験を通して仕込んだ
「これは『痒い』という現象」「これは『痛い』という
現象」という概念が顔を出して、名称を張りつけていく。
プログロミングされた一種の条件反射、
量子力学的な概率、神様のサイコロ遊び。
その時、自分の意識って、なんと朧、いいかげんなん
だろか、と思う(と、思う事もプログラミングだと
ラメッシは言う)。
ラメッシは「どうせ神様のサイコロ遊びなのだから、
あれをしてはいけないとか、これをしてはいけないとか、
自己規制、修練しても無意味」と言っている。
それならば、仏陀の制定した八正道は、
どういう位置づけになるのだろう。
仏陀は「聖なる八正道があるのは、私の教えだけ
(他の、婆羅門の教えには、ない)」
と言っているが・・・修行しないでも、いつかは涅槃を
悟るさ・・・これは毛糸玉(業による混乱、結)は、
何もしないでも、いつかは解けるもんだ、と言った
仏陀と同時代のインドの六師外道の内の一人、決定論者
マッカリ・ゴーサーラと、同じ意見なのだろうか?
ラメッシは、<気づき>が一番大事だ、他には何もない、
と言っていて、これはクリシュナムルティもそうだった
(ク師は「師はいらぬ、師につく事は、無駄。悟るための
方法は、ない」と言っていた)。
仏陀も「私は弟子に多くの事を教えたが、実は、私は、
一言も言ってはいない」と言ったそうで(出典不明)、
ここら辺は、一脈通じる何かがありそう。
アドヴァイタの人々は、主クリシュナを引き合いに出したり、
認めていないみたいで、ここの微妙な差が、ちょっと
理解できない。
追伸:子供が小さい時、「僕は、これはキリンだと思っている」
「僕は、これはキリンだと思っている、と思っている」
「僕は、これはキリンだと思っていると思っている、と思っている」
「僕は、これはキリンだと思っていると思っていると思っている、と
思っている」という言葉遊びの絵本を買って、一緒に楽しんだことが
ありますが、私はその時、軽いめまいを感じました。
この絵本は、子供向けではありながら、思考とは何か?
真理とは何か?を問うているのだ、と今なら分かります。
世界は、あなたが思うよう顕現する。または、あなたが
思うようにしか、顕現しない(のだけれど、これも観念
・・・どこまで行っても観念、観念、観念の罠)。