Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-138

無愛と無恨は、捨心の成就である。

事物に対して、漠然として対応しないとか、無関心であるとか

の状況は、捨心を破壊するものである。

この種の態度は、捨とは言えない。

ただ人々はそれを捨だと誤解しているに過ぎず、実際、それは、

覚醒のない心である。

真実の捨は、衷心において、無感動であるとか、覚醒しないとか

ではなく、楽と苦に導く善と悪を、明確に見てとっているもの

である。

しかし、捨を修行している人は、以下のように省察しなければ

ならない。

「これらの楽と苦は、私とは無関係である。これらは、

彼ら自身、彼女たち自身の、悪業と善業の果報である。」と。

註釈では、

「各種の良い事柄、悪い事柄に対して、衷心的に無感動

である所の、覚醒のない、または失念は、誤りである。

捨を偽装した痴は、誤りである。善を修行したくない心は、

人をだます事が出来る。というのも、それは、まるで捨心に

見えるように顕現するから。

善を行うのが面倒な人の心もまた、まるで捨心であるような、

偽装をする。

故に、我々は注意深くあって、偽装された捨心の愚かさや

怠慢に騙されないようにしなければならない。」

捨とは、決して、無関心とか、漠然としてみているだけ、

というような態度の事ではなく、反対に、それは、目標に

対する関心と熱情を伴うものである。

このように捨を修習する時、彼は心で思う:

私は、衆生と自分を安楽に、または苦痛にする事はできない。

善業のある人は、楽しく、悪業のある人は苦痛である。

彼らの苦楽は、過去の業と関係があるので、彼らの過去の

業が熟し、その為に遭遇しなければならない果報に対して、

私は何かを変える、という事はできないのだ。」と。

ただ、衆生を目標として、このような明晰な省察をして初めて、

真実の捨心である、といえる。

それ(捨)は、憂慮と不安とに巻き込まれることがないので、

聖潔であり、安らかであり、平静である。

(= )(+ )訳者。(つづく)

(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)

中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)