無愛と無恨は、捨心の成就である。
事物に対して、漠然として対応しないとか、無関心であるとか
の状況は、捨心を破壊するものである。
この種の態度は、捨とは言えない。
ただ人々はそれを捨だと誤解しているに過ぎず、実際、それは、
覚醒のない心である。
真実の捨は、衷心において、無感動であるとか、覚醒しないとか
ではなく、楽と苦に導く善と悪を、明確に見てとっているもの
である。
しかし、捨を修行している人は、以下のように省察しなければ
ならない。
「これらの楽と苦は、私とは無関係である。これらは、
彼ら自身、彼女たち自身の、悪業と善業の果報である。」と。
註釈では、
「各種の良い事柄、悪い事柄に対して、衷心的に無感動
である所の、覚醒のない、または失念は、誤りである。
捨を偽装した痴は、誤りである。善を修行したくない心は、
人をだます事が出来る。というのも、それは、まるで捨心に
見えるように顕現するから。
善を行うのが面倒な人の心もまた、まるで捨心であるような、
偽装をする。
故に、我々は注意深くあって、偽装された捨心の愚かさや
怠慢に騙されないようにしなければならない。」
捨とは、決して、無関心とか、漠然としてみているだけ、
というような態度の事ではなく、反対に、それは、目標に
対する関心と熱情を伴うものである。
このように捨を修習する時、彼は心で思う:
「私は、衆生と自分を安楽に、または苦痛にする事はできない。
善業のある人は、楽しく、悪業のある人は苦痛である。
彼らの苦楽は、過去の業と関係があるので、彼らの過去の
業が熟し、その為に遭遇しなければならない果報に対して、
私は何かを変える、という事はできないのだ。」と。
真実の捨心である、といえる。
それ(捨)は、憂慮と不安とに巻き込まれることがないので、
聖潔であり、安らかであり、平静である。
(= )(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)