はじめに
2015年冬、台湾のテーラワーダ系の寺院で修行したとき、
そこで知り合った比丘尼釈吉祥(仮名)さんが、霧社の山頂に
ある彼女の精舎へ招待してくださり、ブッダダーサ尊者の著書
を何冊かくださいました。
その中の一冊が「無我」(台湾香光尼集団翻訳、中国語版)です。
仏教の難題でもあります。
無我、もし、自分がいないのならば、何が輪廻するのか、自分の
なした業を、来世において、誰が業の果を背負うのか、いまだ
合理的な説明ができていないがために、諸説紛々な訳です
いますが、シャンカラの説を理解するのが、また難しい)。
仏陀は「心と身体は自分のものではない」と言い、
盗まれた財布を捜していた若者に「財布より本当の自分を探して
みないか」と声を掛けています。
上記の文脈で言えば、自分(A)が実感できる 心(B)と身体(C)
は自分(A)のものでなく、探すべき真実の自己(D)は別にいる?
ことになります。
では、A、B、CとDの関係や如何に?
私、我、自己、自分、エゴ・・・普通に生活するときに使われる
世俗語と、ダンマにおける出世間語は異なります。
仏陀は、どういう状況において、どういう風にこれらの言葉を使
い分けていたのでしょうか?
タイのブッダダーサ尊者(遷化)の「無我」(中国語版)の翻訳文が
皆様の「無我」理解への、参考資料として、その一助になれば幸いです。
最後に、テーラワーダと大乗を、ともに愛する台湾の釈吉祥比丘尼に
感謝と敬意を表します。
Pannya-adhika Sayalay
(主文翻訳は明日からでーす!)
筆者コメント;仏教に関する膨大な知識を有していても、
必ずしも、悟れるとは限りません。
私が今持つ疑問<誰が涅槃を欲しているのか?>は、
素朴ではありますが、一点突破にはなりえそうです。
中国の禅宗でも、大事にしていた金剛経全巻を投げ捨てて、
一から修行し直した僧侶の話が出てきます。無我と聞いて、
自分が思わず想像してしまう<概念>が、あだになっている
場合もあるかも知れません。立場や宗派に固執せず、
虚心坦懐に学ぶ・・・そんな所でしょうか?