Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

ブッダダーサ尊者著「無我」翻訳ーはじめに

はじめに

2015年冬、台湾のテーラワーダ系の寺院で修行したとき、

そこで知り合った比丘尼釈吉祥(仮名)さんが、霧社の山頂に

ある彼女の精舎へ招待してくださり、ブッダダーサ尊者の著書

何冊かくださいました。

の中の一冊が「無我」(台湾香光尼集団翻訳、中国語版)です。

「無我」、これは仏教の真髄ですが、また、理解が非常に難しい

仏教の難題でもあります。

無我、もし、自分がいないのならば、何が輪廻するのか、自分の

なした業を、来世において、誰が業の果を背負うのか、いまだ

合理的な説明ができていないがために、諸説紛々な訳です

シャンカラは、この仏教の矛盾点を突いて、諸説を展開して

いますが、シャンカラの説を理解するのが、また難しい)。

仏陀は「心と身体は自分のものではない」と言い、

盗まれた財布を捜していた若者に「財布より本当の自分を探して

みないか」と声を掛けています。

上記の文脈で言えば、自分(A)が実感できる 心(B)と身体(C)

は自分(A)のものでなく、探すべき真実の自己(D)は別にいる?

ことになります。

では、A、B、CとDの関係や如何に?

私、我、自己、自分、エゴ・・・普通に生活するときに使われる

世俗語と、ダンマにおける出世間語は異なります

仏陀は、どういう状況において、どういう風にこれらの言葉を使

い分けていたのでしょうか?

タイのブッダダーサ尊者(遷化)の「無我」(中国語版)の翻訳文が

様の「無我」理解への、参考資料として、その一助になれば幸いです。

最後に、テーラワーダと大乗を、ともに愛する台湾の釈吉祥比丘尼

感謝と敬意を表します。

Pannya-adhika Sayalay

(主文翻訳は明日からでーす!)

筆者コメント;仏教に関する膨大な知識を有していても、

必ずしも、悟れるとは限りません。

私が今持つ疑問<誰が涅槃を欲しているのか?>は、

素朴ではありますが、一点突破にはなりえそうです。

中国の禅宗でも、大事にしていた金剛経全巻を投げ捨てて、

一から修行し直した僧侶の話が出てきます。無我と聞いて、

自分が思わず想像してしまう<概念>が、あだになっている

場合もあるかも知れません。立場や宗派に固執せず、

虚心坦懐に学ぶ・・・そんな所でしょうか?