Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー7

「自我」と「無我」の対立は、決して解決できない難問ではない~

「自我」または「無我」というこの問題は、ある種の人々に言わせると、永遠に解けない難問のようだ。

各種の解釈は、その他の雷同する問題と同じく、一致した結論に達することができず、この議論は永遠に止むことなく続いていく(+ようだ)。

実際は、それは、解決のできない難題などではなく、その反対に、最も限定的で、かつ奥深い問題である。それは奥深いことが原因で、人々が徹底的に理解することを困難にしているし、また、その故に、いろいろな異なる見方を生じさせている。

我々は「動物を殺すことは罪になるか?」という問題を例にとって(+検討してみる事にするが)、ある種の人々は、無罪であると言い、また、我々もある種の宗教師がピストルで鳥を射殺するのを見ることがある。

しかし、仏教徒は、これを罪であると見做している。

ことほどさように、人々は、このような、宗教とは関係のない事柄についても、異なった見方を持っている。

我々は、このような問題に関して、解決できない難問であると思うであろうか?

仏教徒に言わせれば、我々はこのように認識することはなく、我々は、動物を殺すのは罪悪であると考えている。

というのも、大多数の人々は、動物に対して少しばかりの憐憫の情を持っており、そのことによって、動物を殺害するのは、罪であると思うのである。

こういうことから、仏教の立場から言えば、この種の問題の解決は決して困難ではなく、実際は、それ自身明確な答えを有しているものである。

同様に、「自我」と「無我」についても同じであり、もし、仏教の立場で詳細に考えて見るならば、我々は、その決定的な意義を見出すことができる。

人々が膚浅な教理(ある種の人々は「無我」の意義を理解しない)でもって検討しようとするとき、この問題は、解決できない難問になってしまう。

これは、動物の生命を草芥のごとくに思っている人と、動物の殺害について話し合うのと同じで、そうであれば、永遠に答えはでない。

(+ )(= )訳者。(つづく)

訳者コメント:日本で「無我」というと、対立概念として、すぐに「真我」が提起されますが、ブッダダーサ尊者は「無我」に対立するのは、まずは「自我」であるとの主張のようです。なかなか興味深いですね。

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>